読書会で古井由吉『杳子・妻隠』を読む

翻訳仲間が月に1度、新宿で、読書会を開いている。
なんと、休むことなく続けること10年。
平日の午前中開催なので、出席するときはいつも、有休をとらなくてはならず、
会議が入ってしまうとそれも難しいので、なかなか出席できずにいた。
でも、今月は10周年記念ということもあり、
また、課題図書が若いころ読んでいたく心を動かされた本だということもあり、
仕事がひと段落してぷらぷらしているのだから、よし、出席しようと、
本棚から古い新潮文庫を引っ張り出して、再読し、読書会にのぞんだ

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

奥付を見ると、手元の文庫は昭和60年12月刊行の10刷。ということは、
大学生のころに買ったものだろう(わたしは古本を買う習慣がほとんどないので)。
心を病んだ女が谷底にうずくまっている場面がやたらと心に残っていて、
ほかはあまりよく覚えていない。切ない恋愛小説だった、と記憶していた。
同居人は、「公園の中をぐるぐる歩くって話じゃなかった?」と言う。


10周年記念だというのに、読書会は主催者とわたし、それにもう一人、合計3名。
課題図書が地味なのか、翻訳小説のほうが人気なのか。
そういえば以前、オースティン『自負と偏見』が課題だったときは、20人近く集まったと記憶している。
今回は参加者3名と寂しかったけれども、人数が少ないから逆に、それぞれががんばって発言したので、
議論は白熱し、内容の濃い2時間となった。


わたしの最初の関心は、なぜこの小説は3人称で書かれたか、ということ。
というのは、わたしはなんとなく、この小説が男性の1人称だったように記憶していたからだ。
視点はほぼ一貫して男性のもので、中盤まで「彼」とだけ書かれて名前すらない。
中盤以降も、女主人公の姉が「Sさん」と呼びかけるだけで、
恋人となる女主人公も「彼」のことはいつも「あなた」と呼ぶ。
男の客観描写が少ないことも、1人称小説のような印象を与える要因だろう。
わたしのこの疑問について、他の2人からいろいろな指摘があり、ほお、と思うことしきり。
この作品の文体は翻訳小説の文体に似ていて参考になる(とくに主語の省略の仕方)、という話が出て、
さすが、2人ともプロの翻訳家だなあ、と感心した。


わたしは自分ではたいした意見が言えないので、
「英語青年」のバックナンバーで仕入れた情報を披露。これも、文体(句読点)に関する話で、
今日の読書会の話題は、文体やメタファー、小説としてのしかけに終始し、
ストーリーやテーマは、ほとんど話題にならなかった。
2時間の話し合いの内容を、あらためてここに書く気にならないので、省略。
25年前、ちょうどこの登場人物たちと同じ年頃だったわたしをひきつけた冒頭の文章を引用しておこう。


   杳子は深い谷底に一人で座っていた。
   十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。
   彼は午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気持で尾根を下り、
   尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それから沢にそって陰気な潅木の間を下るともなく続き、
   一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ちょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。
   谷底から見あげる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した潅木が、黒く枯れ始めた葉の中から、
   ところどころ燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼうっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって累々と横たわって静まりかえり、
   重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。
   その明るさの中で、杳子は平たい岩の上にからだを小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンを見つめていた。
   (8ページ)


このブログでしょっちゅう書いているように、わたしは若いころから、心身を病む、とか、憂鬱、とか、神秘的、といった言葉と、
遠くかけ離れたところで生きてきた。明るくてタフで、元気いっぱい、自由奔放。
それなのに(それだからこそ?)この小説が描く世界に強くひかれた。
今回再読しても、それは変わらない。胸が痛くなるような切ない気持ちで読んだ。
そして25年前にはおそらく気づかなかった、若さゆえの悲しさ、ぎこちなさを、今回は強く感じた。


同居人の印象に残っていたという、公園を歩き回る場面というのは、
物語の中盤、谷底での出会いから喫茶店でのデートを重ねた後、
まだ肉体関係を持つ前の、恋愛においてはもっとも微妙な時期の場面だ。
杳子の病気のリハビリも兼ねて、明るい春の陽だまりの中を二人は歩く。


   目的地に着くまで、杳子の細いからだは緊張しつづけだった。
   しかしいったん公園に入って、表の騒音が塀や木立に遮られて遠くなり、僅かばかりの静かさを円く囲んで柔らかなざわめきに変わると、
   杳子はみるみるほぐれて快活になっていく。
   一歩ごとに飛び跳ねるような足どりで彼女は歩いた。そんなときでも、彼女のからだの動きは滑らかな流れに乏しく、
   いわば折れ線ばかりから成っていて、キュッキュッと向きを変えるたびに、その折れ目に爽やかな精気がみなぎった。
   そして立ち止まると、動きの余韻のように、女らしさが、細いからだにすうっとさしてくる。
   (48ページ)


   公園の中をひとまわりして、ベンチに並んで腰をおろすと、彼は急に疲れに襲われる。
   杳子と逢うようになってからも、今まで一人で引きこもっていた時期の習い性が続いて、
   毎晩、彼は寝床の中で何を考えるわけでもないのに窓の白む頃まで寝つかれなかった。
   牛乳屋の音を耳にして、不眠を喰いあらされたからだにようやく眠気がさしてくるとき、彼にとって、
   もう何時間かしたらまた起き上がって杳子に逢いに出かけるなどということは、思いもよらぬ不可能事に近かった。
   ところがいよいよ眠気にはまりこんでこうとすると、いつもの広場で彼の姿を見つけられずにうろつきまわっている杳子の姿が、
   蒼白い陰惨な横顔が、目の前に浮かんで彼を悩ました。
   眠りこもうとする人間の気儘さから、彼は杳子の存在を重荷と感じた。
   (51ページ)


読書会を終えて、吉祥寺でエキナカ書店に入る。
来週、1週間の出張があるので、文庫の「旅の友」をさがすのが目的。
あれこれ見たのだけれど、いまひとつ決め手がなく、
何も買わずに出るのもしゃくだな、と、最後にひとめぐりしたとき、
ちくま学芸文庫で、ちょっとおもしろそうな本を発見。

新釈 現代文 (ちくま学芸文庫)

新釈 現代文 (ちくま学芸文庫)

帯には、「伝説の参考書、待望の復刊!」とある。
石原千秋の解説によれば、1959年に刊行され、「知識偏重から論理重視への転換期にあった受験現代文の特質をみごとに捉えた、
今に通じる画期的な方法」を説いた、「伝説の大学受験国語参考書」「20年以上も定番であり続けた名著」とのこと。
これは読まなくちゃ、と思い、購入。
まだ読み始めたばかりだが、第1章の現代文の定義からして、そのとおり、と納得。
先を読むのが楽しみだ。なんとなく、何かのきっかけになるような予感がする。