京都で『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』を読む
正確には東京―京都―大阪―東京と読み継いで、
同居人が深夜に帰宅した(おかげで?)日曜日の未明、
とうとう、読了。
- 作者: 平川祐弘
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2008/11/11
- メディア: 単行本
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一冊をこんなに時間をかけて読了したのは、もしかしたら初めてかってくらい、時間がかかったけど、
でも、苦労して最後まで読んで、一応、英文も古文もちゃんと読んで、ほんとによかった。
この本の魅力をひとことで言うと(って、かなり乱暴な話だけど)、
かかわっている三人(紫式部、アーサー・ウェイリー、平川祐弘)がそれぞれに偉大で、
後者二人は対象に深い愛情を注ぎつつ、
驚異的なまでに深く広く、大胆かつ緻密に取り組んでいる、ということ。
著者がこの本の中で繰り返し述べているのは、
このウェイリー訳「源氏物語」が、「両大戦間の『英語芸術作品』として抜群の出来映えである」(12ページ)
ということだ。
著者は、読者の中に疑義を呈する人もいるだろうとことわったうえで、
「すぐれた翻訳」を、次のように定義している。
「すぐれた翻訳とは何か。すぐれた翻訳とは、訳者自身が属する世代の母語のスタイルのうちに外国作品を受容する。
言い換えると、すぐれた翻訳作品とは、世間が考えるような原典の模範的翻訳というよりも、
後世の人の眼には、むしろその翻訳が現れた時代の訳者の母語の文体の
好個の標本として見られる言語芸術作品である場合が多い」(30ページ)
このことを証明するために、著者は残りの数百ページを費やし、
英文・古文・漢文・現代文の入り混じった文章を綴って、雄弁に語っている、と言ってもいいだろう。
そして何よりこの本は、そうしたひとつひとつの引用文の選び方と説明の文章との組み合わせが絶妙で、
なんとも説得力があるのだ。
これを読んだ読者の多くは、よおし、ここはひとつ、ウェイリー訳「源氏物語」に挑んでみよう、と思わずにはいられないんじゃないかな。
読み終えてみたら、あちこちのページのすみが折ってあって、
どこを引用していいのかわからないのだけれど、
わたしがいちばん強く、「よし、源氏を読んでみよう」と思った箇所、
ヴァージニア・ウルフの「源氏物語評」(平川訳)を、一部引用してみる。
男がなにを言ったか、女がなにをはっきりとは口にしなかったか、
歌が沈黙を破り、一瞬、水面上に魚が躍るように三十一文字の銀の鰭が光り輝く。
舞や踊りや絵合わせの遊びや、荒涼たる自然への愛の世界である
(中略)
(紫式部は)……大言壮語を忌み、諧謔を楽しみ、良識ある人々とともに暮らした。
人間の矛盾やその不思議に驚き、草が高く生い茂る、朽ち果てた古い屋敷や、
野分の嵐、わびしい自然、滝の音、砧を打つ音、雁の鳴く音、
それから姫君の赤い鼻までも人々は愛でている。……
(310ページ)
読み進めながらわたしは、自分なりの「源氏」読書方法を考えていた。
本文中の英文と古文とを比較すると、どう考えても英文のほうが読みやすい。
だから、ウェイリー訳のペーパーバックを中心に読みながら、横に注釈本を置いて時々参照する、
というふうにしたらどうだろう……邪道だろうか……。
ところがなんと、この本の中で著者ははっきりと、こうした読み方を推奨しているのだ。
おお、大手をふって、ウェイリー訳源氏で、「源氏物語入門」しようではないか。
この本で何よりありがたいのは、
著者が自認するとおり、「ゆっくりと言葉を味わいながら読む人にとって本書はけっして難しくはない」
ことで、「漢詩であるとか英文であるとかは、読書にむしろ心地よい知的集中の感覚を与える」。
いや、ほんとうにそのとおりで、「青臭いインテリ風の科学的というか疑似科学的述語」がないので、
時間はかかったけれど、なんとか読了できた。
ちょっと大げさな言い方をすれば、この本を読む前と読んだ後では、
自分のものの見方や考え方が、少し変わったんじゃないかな、という気がする。
そんなふうに思えるのは、ほんとうにありがたいことじゃないか。
学校とかに通わなくても、一冊の本を読み通しただけでそんなふうに思えるなんて、
本の力、文章の力ってすごいな。
今日は西荻窪のぷあんで、タイ風のカレーのランチ。
そのあと信愛書店に寄り、「ユリイカ」の最新号を購入。
夕方から美容院に行き、かなり目立ってきた白い髪を茶色くしている間に読了。
思うことは多々あるも、今日はそろそろ寝なくちゃ。
木曜日から出張に出ていたので、いつもに増して朝がくるのが憂鬱な日曜日の夜。