祖父の書棚

内容がなくてもいいからなるべく毎日ブログを更新しよう、と思った矢先、
関西への出張が入ってしまった。
『アーサー・ウェイリー』をもう少しで読み終えるのだけれど、
とりあえず出張の間に考えたことなどを、
ぱぱっと書いておこうと思う。


仕事の合間に、以前から行ってみようと思っていた、司馬遼太郎記念館に行ってみた。
菜の花がきれいに咲いていて、こじんまりとした気持ちのいい記念館。
司馬遼太郎の書斎が、晩年に執筆していたようすのまま、保存されている。
残念ながらガラスごしに庭からのぞくことしかできないのだけれど、
まるで司馬さんは今はちょっと不在だけど、またすぐに戻ってきて、
あのいすに座るんじゃないかな、と思うような風情だ。


安藤忠雄デザインの記念館に入ると、
吹き抜けをつらぬくように配置された書棚に圧倒される。
これはほんとうにすごい。
司馬遼太郎の蔵書はどんなものがあったのか、じっくり観察・調査したい人には不向き。
というのは、ものすごい数の蔵書(でも、これで全部ではないらしい)が、天井までびっしり並んでいるために、
上のほうにどんな本があるのか、まったく見分けがつかないのだから。
つまりこの記念館は、司馬遼太郎のことを調べるための図書館ではないらしい。
入り口で渡されたパンフレットを見たら、
「……大書架はその雰囲気をお見せします。
 見ていただくと同時に、この空間で、
 司馬作品との対話あるいは自分自身との対話を通じて何かを考える、
 そんな時間をもっていただければ、と思います。
 この記念館は、展示品を見るというより何かを感じ取っていただく場所でありたいと念じています。」
とある。なるほど、まさにそのとおり。


で、わたしはこの大書架と向かい合ったとき、何を思ったかというと、
わたしが高校生のときになくなった、母方の祖父の書棚のことだった。
鎌倉の極楽寺にある祖父母の家には、規模はもっとずっと小さいけれど、
応接間の壁一面に、やはり天井まである大きな書棚があった(今もあるはず)。
子どものころわたしは、祖父母の家に行くたびにこの書棚を見上げ、
自分にも読める本がないかとさがした。
もともと学者だった祖父の蔵書は、とても「立派な」顔つきをしていて、
わたしは子どもごころに、「早くこういう本が読めるようになりたい」と思っていた。
あるとき(たぶん小学生の高学年くらいだったと思う)、祖母が、そうやって書棚を見上げているわたしに、
「これならmariちゃんでも読めるかもしれないね」と言って貸してくれたのが、
中浜万次郎の生涯』という本だった。
はりきって持ち帰ったけれども、むずかしくてとても読めなかったと記憶している。


今日見た司馬遼太郎の蔵書の中に、この本があった。
もちろん、ほかにもたくさん、見覚えのある本や私自身も持っている本はあった。
でも、この『中浜万次郎の生涯』という本を見た瞬間に、
子どものころの自分が持っていた、向学心のようなものを思い出して、
なんだかまぶしいような、恥ずかしいような気持ちになったのだ。
そして思ったのは、祖父も、司馬遼太郎も、「かっこいいなあ」ということだった。
そうだ、書を読む男はかっこいいのだ。
(相変わらず幼い感想で情けないけど、ま、それが正直なところだから仕方ない……)


司馬遼太郎は、『坂の上の雲』『関が原』『竜馬がゆく』と、『街道をゆく』を数冊くらいしか読んでいない。
いちばん最近読んだのは『街道をゆく』のシリーズ。

街道をゆく〈30〉愛蘭土紀行 1 (朝日文芸文庫)

街道をゆく〈30〉愛蘭土紀行 1 (朝日文芸文庫)

街道をゆく〈31〉愛蘭土紀行 2 (朝日文芸文庫)

街道をゆく〈31〉愛蘭土紀行 2 (朝日文芸文庫)

話題がぱっぱっと飛ぶ独特の文体が、なんとも言えずよかった。
ほかにもこのシリーズを何冊か読んだけど、
わたしの一番のお気に入りは、このアイルランド編。
あと、『坂の上の雲』などの歴史ものは、ずいぶん昔、中学生か高校生のころに読んだように思う。
おもしろくて、夢中になって読んだように記憶しているけれど、内容はほとんど覚えていない。
せっかくだから、これを機に司馬遼太郎の作品を読んでみようかな。
うん、記念館の菜の花がほんとうにきれいだったので、
前から読んでみようと思っていた、『菜の花の沖』に挑戦してみよう。


さて、ほんとうは京都で高校時代の友人に会ったこととか、
京都で泊まっていた宿のこととか、
いろいろ書くつもりだったんだけど、ちょっとつかれてきた。
続きは、明日。