ぜったいに翻訳家になりたいんです!

昨日は、以前通っていた翻訳学校の夏の特別講座&懇親会に行ってきた。
懇親会で、翻訳の勉強をはじめたばかりの大学4年生と話をした。
大学で英米文学を学び、とくに現代アメリカ文学のおもしろさに目覚めて、
「ぜったいに翻訳家になりたい」と思って、翻訳学校に通いはじめたのだそうだ。
小さな編集プロダクションに就職を決め、仕事をしながら翻訳家を目指す、という。


彼女の思いの強さや深さは、今後どうなるかはわからない。
案外、あっさりと他におもしろいものを見つけるのかもしれないし、
多くの受講生たちと同様、デビューまでの道のりの遠さに幻滅し、挫折していくかもしれない。
もちろん、今現在の実力のほどは、先生に聞いたわけではないのでわからない。
(そもそも、英文科で現代アメリカ文学を勉強していて翻訳家になりたいというのに、
エイゴセイネンもタツミタカユキも知らなかった。ま、そんなものかな?)


でも、今この瞬間に、「ぜったいに翻訳家になりたいんです!」と語ることばに嘘や迷いはなく、
親子ほども年の違うオバサンから見ると、なんというか、まぶしかった。
わたしに子どもがいないからなおさら、新鮮だったのかもしれない。
そして、彼女ほど若くはなかったけれど、20代の後半にこの翻訳学校を訪れたときの自分のことも思い出した。
その時点では、「ぜったいに……」なんていう高い志は持っていなかったように思うけれど、
1年後に学校の先生をやめたときには、並々ならぬ決意をもって、猛烈に勉強していたのではなかったか。
デビューしたあとでも、訳文が研究室の先生に認められなくて、白山通りを泣きながら歩いたのではなかったか。


久しぶりに翻訳学校の「授業」に出席してみて、ふと思ったのだけれど、
たとえば一冊の小説を翻訳するということは、究極の作品研究なんじゃないかな。
こんなことを言うと各方面から非難が殺到すると思うんだけど、
小説の翻訳者は当然ながら、作者の伝記的な事実やら作品が書かれた時代状況やらをある程度調べて、
そのことを頭にいれたうえで、じっくりじっくりテキストを読み、行きつ戻りつしながら翻訳をする。
最適と思われる訳文にするためにあらゆる情報を駆使するわけで、
そこには翻訳者の作品に対する解釈が存在しないはずはない。


もう少し言うと、学校の先生たちが国語の授業でやっている「教材研究」っていうのも同じような作業で、
ものすごく乱暴な言い方になるけれども、
ある作品の魅力や存在意義を、自分の力の及ぶ限り精一杯、読者に伝えようとしている、というふうにくくれば、
翻訳者も、文学研究者も、学校の先生も、やろうとしていることはおんなじなんだ、という気がする。
(書評家とか、読み聞かせをやっている人とかも、いっしょのチームだ)
すぐれた作品は、こうしたチームによるたゆまぬ努力によって、世の中に伝えられ、広められ、後世に残っていくわけで、
編集者の仕事はこの個性派ぞろいのチームをなんとかまとめて前に進めていく、マネージャーというところか。


と、ここまで書いたところで突然、高校時代のソフトテニスのチームのことを思い出した。
わたしはどう考えても、マネージャーやキャプテン(主将)タイプではなかった。
エース(一番手)になること、自分自身が強くなることしか、考えていなかったように思う。
そんな人間に、マネージャー的役割の編集者なんて仕事、つとまるんでしょうか……?