翻訳家時代のことなど

元翻訳家の方が書いた本『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』が話題だ。信頼する翻訳家の方がこの本を読んで、とても褒めていたので、読んでみようかなと思ったりもするけど、ここに書かれたひどい編集者&出版社の話題に呼応するように、これまで翻訳家のみなさんが受けたひどい扱いがツイッターで流れてきて、現在編集者である私にとっては辛い読書になるのではないかとちょっと二の足を踏んでいる。

 

もちろん私は翻訳者に対して不誠実な態度をとったことはない(はずだ)。はずだ、と書いたのは、自分はまったく気づいていないところで、ひどいことを言ったりしたりしている可能性がないとは言い切れないから。ただ少なくとも、自分自身が何年も翻訳学校に通い、下訳や共訳や雑誌の翻訳、それにリーディングをたくさんやって、やっと本の仕事をするようになって、でも翻訳だけでは食べていけなくて、いろんな種類のアルバイトをやったり、妹にお金を借りたりしていっぱい辛い思いをしたから、翻訳者(とくに駆け出しの)の経済的な苦境とそれでも本を出したいという情熱に、誰よりも寄り添う編集者になろうと思っていた。

 

それでも、持ち込みの翻訳者さんをがっかりさせてしまったことは何度もあるし、こちらから依頼してレジュメを書いてもらったのに、企画会議が通らずに断念したこともある(レジュメ代だけお支払いした)。今回の異動前に検討中だった企画も何本かあり、試訳をいただいていたものもあった(試訳代だけお支払いした)。レジュメも試訳も、企画が通らなかった場合はレジュメ代・試訳代をいくらお支払いします、と伝えてはあったけれど、訳者さんからしたらお金じゃないんだ、この本を出したかったんだ、という気持ちだろうなと思う。

 

自分自身の翻訳家時代、そういうエピソードはあったかというと、やはりそれなりに、いろいろあった。同じ出版社から、2冊連続で1冊まるまる訳して編集者と細部の打ち合わせまで進めてたのに刊行中止、ということがあって、このときはたしか、予定していた印税の半額程度をそれぞれもらったと記憶している。編集者の方は熱心で誠実なお仕事をされていたと思うけど、上司の許可がなかなか出ない、という話だった。私の翻訳がだめなのかな、と当時は悩んだけれども、たぶんその会社の企画進行の方法がまずかったんだろうと今になってみるとわかる。まわりにも何人か、その会社から刊行中止の憂き目にあっていた。

 

それからもう1冊、まるまる1冊某翻訳家の下訳をして、先生の名前で近刊案内まで出たのに、担当編集者が異動だか転職だかでいなくなってしまい、企画が流れた、という本がある。ネイティブ・アメリカンの作家の書いた幻想文学で、内容が結構難しかったので相当時間をかけて訳した。英語でどうしてもわからないところを解決するために、英会話学校のプライベートレッスンをとったりもした(もちろん自費)。翻訳データは先生に渡したきり、コピーなどもとっていなかったので(なにしろ20年以上前のことだ)、今となってはどんな翻訳だったかふりかえるすべもないのだけれど、なかなか面白い作品だったことは間違いない。「他の出版社から出せるように働きかけているから」と先生は言っていたけれど、もう忘れているだろうな。というわけで、これが唯一、下訳料をもらいそびれた案件。当時は下訳料を払わない先生が大勢いたと聞いているけれど、わたしは図々しく催促するし、いつもお金がなくてピイピイだったので、この一件以外はもらいそびれることはなかった。

 

ちなみに、2冊連続で刊行中止を出した出版社は、今はもう翻訳出版はほとんどやっていない。担当編集者はまもなく退職して起業したらしい。下訳が流れた出版社は、今も時々、翻訳小説を出しているけれど、あのときの外国文学のシリーズは、もちろんもうない。翻訳出版をめぐる状況は年々厳しくなっているように思うし、残念ながら私もまた、唐突に翻訳出版を離れざるを得ないことになってしまったわけだけど、だからといって翻訳出版に未来がないとは思わない。楽観的にすぎるのかもしれないが、わたしは仕事を離れても毎日、ネットやツイッターで翻訳書の情報に触れ、書店に行けば必ず翻訳書の棚をながめ、翻訳書を買って、読んでいて、翻訳書を読まない人生なんて考えられないから。

 

この週末は少しだけ仕事をしたけれど、全体としては友人に会ったり本屋さんに行ったり温泉施設に行ったりして人間らしく過ごした。土曜日の新宿は混んでいて、伊勢丹で化粧室を使おうと思ったけど並んでいたので、勝手知ったる紀伊国屋書店の3Fの化粧室を借りた。せっかくきたんだからと短時間書棚をながめただけで、欲しい本がどんどん出てきてしまい、うーん、どうしよう、と思いつつ、最終的に選んだのがこの2冊。散財。

 

魯迅と日本文学: 漱石・鷗外から清張・春樹まで

魯迅と日本文学: 漱石・鷗外から清張・春樹まで

  • 作者:藤井 省三
  • 発売日: 2015/08/21
  • メディア: 単行本
 

 

 

ミルクマン

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