疲れているのかも

昨日土曜日、仕事関係のセミナーに参加。
「文学教育」をテーマにする研究会の全国大会で、昨年から参加しているもの。
昨年同様、会場の人々に共通する「教師臭さ」のようなものに少しだけ及び腰になりながらも、
昨年同様、「この人たちとだったら、いっしょにがんばれる気がする」というぼんやりとした感想を持つ。


この人たちの言っていることは、「文学を文学として読む」とか、「文学教育は感動体験である」とか、
まあ、それだけ聞くと多くの識者は、けっ! と言いそうなことばかりなのだけれど、
それに続くさまざまな「具体」について見せられているうちに、
この人たちはたしかに時代遅れかもしれないけれど、
いつの時代にも守らなくてはならない、たいせつなことを言っているんじゃないかな、と思えてくるのだった。


全体会でその日の講演者の丘修三さんの手紙(小学生読者にあてたもの)が読みあげられて、
その文面にまず、ちょっとうるっ。
その後、その会の常任委員長である80代の先生が出てきて、
その年齢にもかかわらず、熱く熱く文学教育について語っている姿を見ていたら、
さらに、うるうるっ。


こんなとこで泣いていると異様だと思い、なんとか涙をこらえようとするのだけれど、
こらえようとすればするほど、涙が出てきて、
どうやらわたしは、ずいぶん疲れているらしい、と思い至った。
ここのところ、とにかく作業をしなければ、ということで、
あまり考えることなく、原稿整理→入稿、を繰り返している。
編集者として、この時期にはこういうことをしておきたい、というあれこれの、
半分くらいもできていなくて、ストレスがたまっているのだろう。


ひとことで編集者といっても、いろいろなタイプの編集者がいて、
まあ、だれもが文学好きである必要はないし、文学好きばかりの集団はコワイ。
でも、この会社に入ってから、「文学は大事だと思う」なんてことは、
なぜだかとても口にできないような雰囲気があって、
「ブンガク、ブンガク」という人は、遅れているというか、時代が見えていないというか、
うーん、「会社の利益に供与しない人」というイメージなんだな。


でも、やっぱりわたしはとてもとても文学が好きで、
子どもにも大人にも、もっともっと文学に触れてほしいと思っていて、
自分が読んだ「すばらしい本」は、たくさんの人に読んでもらいたいし、
人が読んだ「すばらしい本」も、たくさん紹介してもらいたい。
自分が読んだ本をほかの人がどんなふうに読んだかも知りたいし、
それを聞くことでその人とも深く知り合いになれたような気がするし、
まあ、とにかく、少なくとも自分自身は、「文学に人生を教えられた」と本気で思っているのだ。
だから、なんかこの時代遅れの感じの集会に、大げさにいうと「同志を得たり」みたいな感じがして、
ついつい、涙が出てしまった、というわけ。


で、今日は気分を変えて、江ノ島へ海水浴に。
浜辺で、ラディゲ『肉体の悪魔』を読了。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

おもしろかった。けど、これはやっぱり、思春期の男の子が読んでこそ、がつーんとくるだろうなあ、という印象。
感情移入型読書人のわたしとしては、だれに感情移入していいかわからず、
主人公の16歳の少年の語りに耳を傾けつつ、
「ああ、こういう男の子っていたなあ」と、はるか30年前を思い出したり、
「年上の女性」とかいったって、なんだ、19歳かあ、と意味なくがっかりしたりして、
いまひとつ入れ込むことはできなかったような気がする。
でも、繰り返しになるけれどそれは、わたしが40代の女だからで、
この小説は、今2008年に、進学校の高校1年生の男子に読ませたら、
かなりの数の高校生の共感をよぶんじゃないかと思う。
(ただ、国語の教科書のブックガイドに載せるのは、たぶんアウトだろうねえ……いや、高校ならセーフか?)


ロマンスカーで新宿まで戻り、そのまま京王の古書市へ。
1時間半くらいいて、ひとまわりしたけれど、かなりの充実ぶり。
もう少しじっくり見たかったけど、さすがに海水浴疲れでへろへろしてきたので、
1冊だけ買って退散。
買ったのは、ジョン・フォークナー著・佐藤亮一訳『響きと怒りの作家 フォークナー伝』(荒地出版社)という本。
1964年、わたしの生まれた年に出版された本だ。
訳者はあとがきで、次のように書いている。


   本書は兄ビルへの追慕に満ちた思い出である。単なる青少年時代のエピソードの断片的な思い出であるという、わが国の研究者もいる。
   わが国ばかりではない。アメリカでのこの本に対する批評も私は読んでいる。
   ついにこの本から、作家フォークナーの秘密は探り出せなかったという。
   それに、単なる甘い思い出記であるという批評は、私にもわかりすぎるほどわかる。
   しかし、どうしてひねこびれ、深さを見せることを試みなければ、文学者に対する思い出にならないのだろうか。
   私は、このような思い出記も有意義であり、研究者のためになるものだと考える。けなす理由がないではないか。
   (250ページ)


今年の夏はできるかぎりたくさん、フォークナー作品を読んでみようと思っている。
まずは、最近「家具・置物」と化しつつある、池澤夏樹の世界文学全集に採録されている、『アブサロム、アブサロム!』から。
それを読み終えたら、中休みで、この弟の手による「甘い思い出記」を読んでみようかな。
これから1週間は地獄の日々なのだけれど、
それが過ぎると夢の夏休みが待っている。「夏のフォークナー祭り」を楽しみに、地獄の日々を乗り切るぞ。おー。