日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

読了。
すごい本だった。途中、何箇所か、読みながらふるえた。
わたしがずっとこだわっていること、悩んでいること、迷っていることに、
唯一無二の答えではないけれど、
「こんなふうに考えてみたら」という示唆を、明らかに与えてくれた。
日本語、英語、日本文学、国語教育をとりまくさまざまな事象を、
学者の明晰さと小説家の説得力とをあわせもった文章で、
驚異的な粘り強さで綴っている。
もしかしたら、語学や文学や教育の専門家たちからすれば、
言い古された陳腐な議論、表現なのかもしれない。
けれども少なくとも現在のわたしには、この本は最高にスリリングで、
今、いっしょに仕事をしているあの人やこの人、
これからいっしょに仕事をしようとしているあの人やこの人に読んでもらって、
ぜひ、感想を聞きたいと思うような本だった。


ほんとうはいつものように、おおっと思ったところを引用したいのだけれど、
この本はまったくもって引用に向かない。
水村美苗はこの本で、「日本語が亡びる」とはどういうことか、について、
自分の見解をはっきりと述べている。
さらに最終章では、日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか、ということについても、
はっきりと、きっぱりと、ある提案をしている。
その主張の部分だけを、一段落、あるいは一行で、抜き出すことができる。
でも、そんなことをしても、何の意味もない。
この本のすごいところは、この一行へ向かって著者がたてている道筋そのものなのだから。
だから、引用はしないし、とばし読みも勧めない。
とにかく、最初から最後まで読んだ人がどう思ったか、感想を聞きたい。


12歳からアメリカで育ち、イェールで仏文学を学び、
プリンストンで日本近代文学を教える小説家を、
自分自身の体験と重ねて語ることなど、到底できるものではない。
でも、水村にくらべればはるかに低レベルではあるけれども、私もまた、
日本語と英語の間を、ああでもないこうでもないと迷いながら行き来し続けている、という思いがある。


昨今のハウツー本によくあるような「年収1・5倍アップ!」のための道具として英語を学ぼうとした時期も、
英検やTOEICなどの資格試験を目標にがんばっていた時期もあった。
けれども、そうしたコミュニケーションツールとしての英語への関心はしだいに萎えて、
日本語で表現をすること、日本語で書かれた優れた作品(もちろん、翻訳作品も含む)を紹介すること、に、
自分の関心は収束していった。
英語教師か国語教師か、英日翻訳か日英翻訳か。英語の本の編集か日本語の本の編集か。
英語と日本語の間で迷うたび、結局、「日本語」での発信を選んできたように思う。
そしてそのことの根底には、物心ついて以来ずっと抱き続けている、「文学」への執着があるような気がする。


などと書いてみたものの、「文学への執着」なんていうのは、ちょっと大げさすぎるかな。
とにかく小さいころから、「物語」「小説」が好きだった、というだけのこと。
これから先もずっと、物語や小説を読み続けたいし、
自分が読んで感銘を受けた物語や小説を、ほかの人たちにも読んでもらいたいし、
同じ本を年を経て何度も読み返したり、人から新しい視点を与えられて読み直したりするのもすてきだと思う。
もし、水村が言うように日本語が亡びようとしているのなら、
そして水村の言う対処法によってそれをふせぐことができるのなら、
わたしは喜びいさんでその処方箋に従おう。自分の限られた時間と力を投入しよう。
(もちろん、この問題はそんなに単純な話ではない。
 とりあえず、こんなふうに鼻息が荒くなるくらい、この本に感銘を受けた、ということが伝わればいいかと。)


定期購読している雑誌が2冊届いた。
國文學」12月号と「myb」11月号。
國文學」のほうは映画文学特集だが、次号予告を見て楽しみにしていた、
「『仁義なき戦い』におけるシナリオの妙」(西谷拓哉)という論文が見当たらなくてがっかり。
数年前に「仁義なき戦い」を全作観て以来、うちは同居人ともども、このシリーズの大ファンなのだ。
つい先日も、このシリーズではないが、菅原文太主演のヤクザ映画「県警対組織暴力」というのを観て、
大感動したところだった。
たかがヤクザ映画、ということなかれ。
だまされたと思って、これらの作品のうちの1本をレンタルビデオで観てみてほしい。
戦争の傷跡が色濃く残る「昭和」という時代と、いつの時代も変わらない人間の「業」のようなものを、
かなりリアルに感じ取ることができる。


「myb」の11月号の特集は、「地名が語りかけるもの」。
特集のエッセイ4本はどれも、視点はおもしろいのだけれど、ちょっと食い足りない印象。
地名のおもしろさの「さわり」をちらっと見せて、「あとは自分で調べて、研究してね」という感じだ。
この雑誌は50代以上の成熟した読者をターゲットにしているから、
「あとは自分で……」という姿勢がちょうどいいのかもしれないけれど。


追記。
日本語が亡びるとき』をめぐっては、WEB上でもかなりいろいろな論評が出ているようだ。
ちらちらと見ただけだけれど、どの意見もそれぞれに説得力があり、
あっさりと、ふるえるほど感銘を受けてしまった自分の浅はかさ、単純さが恥ずかしいような気もする。
でもそれがいまのわたしの限界というか、現実の姿なわけだから、まあ、仕方がない。
否定的な論評に積極的に耳を傾けて、多様な視点と知識を得るべくつとめよう。