久米島で文学談義を読む

またずいぶん間があいてしまった。
恒例の沖縄旅行、今年は久米島に2泊、那覇に1泊。
これ!という文庫本がなくて、スーツケースに4冊の単行本を入れての移動となった。
現地では予想以上に天気がよく、1日フルに遊び回るために夜もバタンキュー(←古い言い方だね)、
というわけで、結局、文学談義をまとめた対談本2冊しか読了しなかった。


文学のレッスン

文学のレッスン

英仏文学戦記―もっと愉しむための名作案内

英仏文学戦記―もっと愉しむための名作案内

どちらも一般読者向けの気軽な語りなので、楽しくすいすい読み進めた。
丸谷才一のほうは、「考える人」連載時に一度読んだものがほとんどだと思うのだけれど、
あらためて読んでみると、へえ、と思うことも多い。
かなり気楽な感じで、あれが好き、これがおもしろい、と語っていて、
次から次へと固有名詞が出てきて、その中にちらっ、ちらっと日本の読者にはあまりなじみのない、
英米の小説や作家、批評家、文献などがさりげなく出てくる。
読んでいるだけでこちらがお利口になった気分が味わえるし、
丸谷さんの語り口は、ふしぎに「説教オヤジ調」でないのが心地いい。
「教えてやるぞ」という圧迫感がなくて、「ぼくはこういうのが好きなんだよね−」と、ただ言い放っている感じ。
年をとっても、だれもが説教オヤジになるわけではないのだ。


日本文学にもかなり言及している「文学のレッスン」に対して、
斎藤・野崎対談本は、タイトルどおりイギリス文学とフランス文学に限定して文学への愛を語っている。
この本は、そりゃまあ、わたしにとってはなかなかに面白い本であるわけなんだけど、
でも、いったいどういう人が買うのかなあ。
ただでさえ読者の限られる海外文学なのに、一番人気のアメリカや、見直されつつあるロシアを無視して、
イギリス文学とフランス文学に限定したうえで、一つ一つの作品をかなりじっくり論じてる。
一応、あらすじの説明みたいなことをして、未読の読者にも読めるように工夫しているけれど、
まあ、未読の読者だったらちょっと飽きちゃうかな、というくらい、かなりつっこんだ、深い話になっている。
逆にいうと、既読の読者からすると、ものすごくおもしろい、ということだ。
オースティンやスタンダールディケンズ、フォスター、ゴールディングカミュなど、既読の作品の回は、
斎藤さん、野崎さんという二人のすぐれた読み手が、それぞれの作品をどんなふうに読んだのか、
二人のツボというか、ひっかかりどころの違いなんかもわりとよくわかったし、
自分が感銘したところをあらためて思い出したりもして、かなりわくわくしながら読んだ。
斎藤さんが比較的冷静なのに対して、
野崎さんは陶酔型、というか、すぐに「素敵ですね」「すばらしいですね」とか言っちゃう、という違いはあるのだけれど、
二人ともどちらかというと全体のストーリー展開より、細部の描き方や表現に注目するタイプという点では共通している。
赤と黒』の「オレンジ色のふとん」とか、『ボヴァリー夫人』の「十九分」とか、
二人で競うようにこだわりポイントを披露しあってはしゃいでいるのが、
ちょっと子どもっぽい感じでほほえましい。読者であるわたしも、そのはしゃいだ気分を共有できる。
……と、このように、既読の作品の章については、大変楽しめるわけなんだけど、
未読の作品の章になると、残念ながらこのはしゃぎぶりに、まったくついていけなくなる。
しばらく努力して読み進めていたのだけれど、途中であきらめて、未読作品の章は飛ばした。
なお、この本には巻末に「さらにおすすめ!」として英仏文学作品がいくつかあげられている。
二人とも、自身の訳書や専門分野の本をさりげなくいれていることも含め、おおかた「さもありなん」というラインナップなのだが、
ひとつだけ、斎藤さんが、イシグロの『わたしを離さないで』をあげているのが意外だった。


帰宅すると、ポストに文芸誌が3冊、届いていた。
早速、「文學界」から読み始める。
山田詠美の「GIと遊んだ話(五)」がおもしろかった。
「正しすぎるから」という理由で夫に捨てられそうになる女主人公の話だ。
挿入されているエピソードが、いちいち説得力がある。うまい。身につまされる。
続いて、小谷野敦「母子寮前」を一気読み。
母親が肺癌の告知をされてから亡くなるまでの出来事を、
母親にまつわる思い出と交錯させて描いた私小説
病院やホスピスの対応の悪さや、病室のようす、食事の内容などが、
日記をつけていたのかと思うような細かさで記されている。
妹が同じ腺癌の第四ステージだったので、使っている抗がん剤の名前だの、
病状の進み方だのが、むやみにリアルに迫ってきて、途中ちょっとつらくなった。
六十八歳だって十分早いとは思うけれど、
うちの妹なんて三十三歳で死んじゃったんだよ、なんにも悪いことしてないのに。
でも、母親を失ったら味方がいなくなってしまう、と思っていた小谷野さんのもとに、
お母さんのことばを借りれば「天使」が現れる。
二十歳くらい?年下の「妻」だ。
この小説の中で、「妻」はそれほど多く登場しないのだけれど、存在感はある。
主人公を含め、「父」「叔母」「弟」、病院関係者など、登場人物の多くが「死」や「老い」を感じさせるのに対し、
この若い「妻」だけが、「生」の象徴のように明るく、まっすぐに生きて、主人公を支えている。
少なくとも、語り手の目には、そのように映っている。
この「妻」の存在がなかったら、この小説はただつらいだけの手記になっていたような気がする。
あるいは、彼女がいなければ、そもそもこの小説は書かれなかったかもしれない。


明日は妹の命日。
我が家の中ではわたしだけが、妹の最期に立ち会うことができた。
思い出すと今でも涙が出てくるようなシーンだけれど、
最近はなんとなく、妹が家族の中でわたしを選んでくれたような気がしている。
両親も兄も、わたしに負けず劣らず妹を愛していたけれど、
なんといってもわたしたちは、最大のライバルであり、親友であり、
だれよりも多くの時間や秘密を共有したのだから。