国語の入試問題のこととか、漱石のこととか

今週は読書が集中せず、雑誌や新書をちょこちょこと読んで過ごした。
先々週に読んだ辻由美「読書教育」に続き、国語教育がらみの本を何冊か読了。

「国語」入試の近現代史 (講談社選書メチエ)

「国語」入試の近現代史 (講談社選書メチエ)

「われわれが自明のものとして捉えている『読む』という行為は、素材としての言葉を加工・矯正していく技術であり、
 われわれは入試現代文を読み解くようにしか文章を読めなくなっているのではないか。」(13ページ)
という問いかけにひかれて読み始めた。
大正時代から戦前・戦後と、入試現代文の変遷を歴史的に追っていく力作で、
なるほど、なるほど、と感心しつつ読んだ。
だけれども、著者自身があとがきで触れているように、
考察は共通一次試験で終わっているうえに、では、これからどうなっていくことが望ましいのか、という提言はない。
批判していることや、その根拠については、「もっともだ」「そのとおり」と思うのだけれど、
では、どうしたらいいのだろう、ということについては、何も書かれていない。
これからいっしょに考えていきましょう、ということなのだろう、と解釈することにして、
ここに出ていた参考文献などを読んでみることにする。
「現代文の力をつけるためには日常的に本に親しみ、読書を通じて教養を身につけていかなければならないという考え方、
 あるいは、授業で教科書を熟読して教師の説明に耳を傾けることが大切だという考え方は、このときひとつの凋落を強いられることになる。」(203ページ)
という部分の後注であげられている参考書、河村清一郎『入試現代文問題の正解法』(三省堂、昭和53年)とやらを、まずは読んでみようか。


続いて、岩波新書創刊70年企画の一冊、三浦雅士漱石 母に愛されなかった子』を読み始める。

漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)

漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)

愚かにも読み始めて気がついた。わたしは案外、夏目漱石を読んでいないのだ。
子供のころに『わが輩は猫である』『坊ちゃん』を読み、高校時代に『こころ』と『三四郎』以下3部作を読んだけれど、
仕事で扱った『こころ』以外は読み返していないから、すっかり忘れてしまっている。
いちばん印象に残っている作品は、30代の半ばに読んだ『明暗』だけれど、水村早苗の『続・明暗』を続けて読んだので、
どこまでが漱石の作品だったか、わからなくなってしまっているというていたらく。
というわけで、せっかくの三浦雅士漱石論だというのに、原典のほうの記憶が不鮮明なために、なんだかあやふやな読後感になってしまった。
これはいかん、ということで、まずはここに出てくる漱石の作品を読んだうえで(本はすべて自宅のどこかにあるはず)、この新書に戻ってくることにした。
前半3分の1ぐらいを読んでみた印象では、漱石論の入門書としてはとても読みやすい。
「文学研究」はちょっと敷居が高いけれども、「文学研究」っぽいものを読みたい、という人に最適。
わたしの苦手な批評理論の引用もいっさいなく、そういう意味では、古いタイプの文芸批評かもしれない。


先月号にひきつづき、「國文學6月号 特集落語を愉しむ」を購入。
[rakuten:book:12927494:detail]
これまであまりなじみのない世界だっただけに、読むのに結構時間がかかる。
でも、読んでみると案外文章はやさしく、この雑誌はいまのわたしにちょうどあっているような気が。
そこで、1冊1600円の雑誌だけれど、思い切って定期購読を申し込んだ。
次号の特集は「地方の文学」とかで、おもしろそうだし。
(でもほんとうは、6月臨時増刊号もほしいんだよな〜 こっちは送料無料にならないのかな〜)


さて、金曜日に仕事の関係で鎌倉に行き、そのまま実家に帰った。
帰り道、湘南新宿ラインの中で読む本として、新書を2冊購入。
笹原宏之『訓読みのはなし』と、南條竹則『悲恋の詩人 ダウスン』。
(『コンゴ・ジャーニー』はいろいろな意味で「重い」ので、つい後回しになっている……)
今日は珍しく1日、何も予定がない。本が読めるかな……。