文学について考えた―フォークナー、トム・マシュラー、金井美恵子、「源氏」研究者

ゴールデンウィーク突入と同時に風邪をひき、あまり活動できなかった。
(と言いつつ、多摩ウォークラリーには出て20キロ歩いんだけど……)
5月3日、珍しく1日中家にいたので、リビングルームに落ちていた雑誌に目をとおす。

フォークナー〈第10号〉特集 フォークナーとエスニシティ

フォークナー〈第10号〉特集 フォークナーとエスニシティ

フォークナー作品は、「響きと怒り」「八月の光」「サンクチュアリ」くらいしか読んでいないのだけれど、
そんなわたしでも十分楽しんで読める記事がいくつかあった。
たまたま既読の2冊に登場する「チャーリー」をとりあげて、「チャーリーは痛ましい愛の証人である。」
と書き出している、後藤和彦氏の特別寄稿記事「敗亡の国、ナショナリズムと愛 上」は、
「そしてそれを私は『愛』と呼んでいるのである。」という一行で終わっていて、次回(下? 中?)への興味をそそる。
堀内正規氏の巻頭エッセイを読んだときには、わたしの日頃の不満や疑問に対する答えの一端を見たような気がした。


  ……「こんなもののために生まれたんじゃない」と思ったことのない人はたぶんいないだろうが、
  そういう気分を並はずれて持つ人のために、フォークナーの小説はある。
  <フォークナー>を格別に必要とするような種類の人間がいるのだ。
  逆に言うと、社会的存在として、関係の網の目を引き受けて成長し、<行動>によって社会を改良しようとするとか、
  あるいはせちがらい世の中で変わりばえしない日常を精一杯生きて、束の間の休息に安らいながら<生活>を着実にいとなむとか、
  そういうことに心が向かう人たちはフォークナーの小説を読む必要がないのだと思う。
  (7−8ページ)


おお、「フォークナーの小説」をそのまま「文学」と読み替えてもいいのではないか。
と、盛り上がったところで、読みかけのままほっぽらかしていたトム・マシュラー「パブリッシャー 出版に恋をした男」を手にとる。

パブリッシャー―出版に恋をした男

パブリッシャー―出版に恋をした男

5月4日、読了。
どんなに文学が好きでも、「作家」にも「文学研究者」にもなれず、「翻訳家」の夢も遠ざかりつつあるわたしにとって、
現在もっとも近い、職業としての文学との接点は「編集者」であるわけで、
よーし、それなら世界一の文芸編集者の回想録を読んでみようじゃないか、と。
読んでみてわかったのは、やっぱり、編集は「人」なんだな、ということ。
この怪物のような出版人だって、若い頃から一人ひとりの作家や画家との出会いを積み重ねて、今に至っている。
もちろんビジネスとして成功しているわけだから、本には書けないような裏事情もないわけではないだろうけれど、
基本的には「自分が面白いと思うかどうか」で、作家や作品を選び、編集し、売り出す。
そういえば講演会のとき、商業的に成功した例ばかりがスポットライトを浴びるけれども、
実際にはいい作品なのに売れなくて消えていったものが大部分なのだ、と苦々しげに話していたことを思い出した。
そうだよなあ、文学は売れない、文学の企画はとおらない、と嘆いていたって、何も変わらないんだよなあ。


と、反省モードに入りつつ、そのものずばりのタイトルの本を手にとる。

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

5月7日、読了。
1987年に刊行された講演録の復刊だけれど、いやあ、金井美恵子って、すごい。
とにかく読書量が普通ではなく、引用も国内外の小説、批評、哲学書など広範にわたっている。
読んでいるだけで、こちらも賢くなった気分が味わえる。と同時に、うーん、もっともっと本を読まなくては、とさらなる反省モードに。
タイトルの「読まれなくなった小説のために」に対する答えのようなものを提示している部分を引用。


  ……そのような「内容」とはほとんど無関係と思われかねない細部を読み落としてしまう読者が非常に多いし、
  そういう細部を読み落としてしまうような読者にとっては、アミエルの哲学のほうが大切で、
  天候や湖の色とか、空の色を書いた天気についての記述なんてのはほとんど意味がないと考えてけずってしまう、
  そういう非常にひからびた無味乾燥な読書も一方にはあります。
   だけど、私たちの考える読書は、それとは正反対のものです。もちろん細部だけが快楽を決定するわけではありませんが、
  細部の隅々まで味わう読書によって小説を読む。そういうことを通して、いまジャーナリズムなどで言われている小説の読者の目減り、
  読まなくなってしまった状況を乗り越え、小説のもつ快楽的な側面、簡単にいえば楽しみとか贅沢、そういう現実的な効用をもたない世界をもっと、
  私自身もですが、読書を通じて豊かに回復したい、というと立派にきこえるのでしょうが、小説は読みたい人だけが読めばいいのです。
  (67−68ページ)


この引用部分、最後が乱れていますが、原文ママです。この、最後がやけくそみたいに乱れているところも含めて、いいなあ、と思う。


翌5月8日、朝日新聞の夕刊で、「源氏物語」の研究者、故三谷邦明氏の記事を読む。
入院前、病院に提出する書類の「心配事はありませんか」という項目に、三谷氏が「文学の現在」と書いた、というエピソードに、思わず涙。