荻窪「湯〜とぴあ」で「ユリイカ」世界文学特集を読む

久しぶりに荻窪の「湯〜とぴあ なごみの湯」に行った。
読みかけのリーディングプルーフを持っていくわけにはいかないので、
鞄の中には古典新訳文庫1冊と、「ユリイカ」の最新号をいれた。

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

特集「新しい世界文学」は、目次をぱらぱらめくったときは、正直、あまりひかれなかったのだけれど、
冒頭の鼎談は予想以上におもしろかった。
ブログ仲間のmttさんがとてもいい箇所を引用していたのでわたしはあえて引用を避けるけれども、
全体としてかなり読みでのある鼎談だった。
鼎談を読み終えたところで、予約していたマッサージの時間になってしまったので中断。
そのほかの記事はこれから。楽しみだ。


ラオックス伊勢丹でちょこちょこと買い物をしたあと、これまた久しぶりにパルコの本屋へ。
入り口近くで「絶版文庫フェア」みたいなのをやっていて、
かなりの時間をそこにしゃがみこんで過ごす。
レジ近くの平台で、三砂ちづる『きものとからだ』という本を発見。

きものとからだ (木星叢書)

きものとからだ (木星叢書)

いきなり、「この本には、誰でも着たい人はきものが着られる、ということが書いてある」という書き出し。
おおっ。さっそく購入。
じつは以前この著者の『オニババ化する女たち』という新書を読んで、
ちょっと、ん?と思ったような記憶もあるのだけれど、
この際、そんなことは脇において、この「きものとからだ」という本は、
いまのわたしにまったくもってぴったりの本ではないか。
なにしろこの著者は、きものを着るために必要なことは二つしかない、と断言していて、
それは「きものを着る、という決意」と「きもののことを相談できるメンター」なのだそうだ。
わたしの場合、後者については先日いっしょに買い物にいってくれた先輩がとっても身近(同じマンション!)にいるのだから、
あとは、そう、前者の「決意」さえあればよいのだ!
帰宅するなりリビングの床に座り込んで、一気に読了。
もう、ぜったいぜったいきものを着るんだ〜!イベントだけじゃなくてふだんにも着るんだ〜と、
この本にもあるとおり、「着物モード全開」なのだった。


今日はパルコでそのほかに2冊購入。
お仕事半分の石川巧『「国語」入試の近現代史』と、
来週の講演会にそなえて、マシュラー『パブリッシャー―出版に恋をした男』を。


夜は同居人が買ってきた武藤康史『文学鶴亀』をぱらぱらと読む。
「○○高校の国語の時間」という項目に目を奪われる(○○高校はわたしの母校だ)。
そこにでてくる野地先生という人に、わたしは高校2年のとき漢文を習った。
黒板に漢詩を書いて、朗々と読み上げ、
「みなさん、見えますか」と語りかけてくれる、ダンディな先生だった。
わたしが今も漢詩が好きなのは、もしかしたらこの先生のおかげかもしれない。
同じ年に古文を教えてくれた門倉先生もすばらしい先生だった。
わたしのクラスには割り振られなかった門倉先生の「舞姫」の授業に参加したくて、
別のクラスの子にかわってもらったことがある。
今思えば先生が気がつかなかったはずはないのだが、とくにおとがめはなかった。
のどかな時代だったのだ。


二十年以上を経て、仕事の関係で各社の国語の教科書をながめていたら、
某社の編集委員の欄に、「門倉正二」の名をみつけた。
門倉先生のファーストネームは覚えていなかったけれど、
これはあの「門倉先生」にちがいない、と思った。
機会があれば先生にご挨拶したいけれど、
なんといって挨拶すればよいのだろう。


こんなぐあいに、わたしは高校時代の国語の授業や先生に対して、
感謝や尊敬の思いこそあれ、「恨み」はまったく抱いていない。
なぜだろう、と考えてみたら、わたしは興味のない授業のときは、
ひたすら寝ているか、文庫本を読んでいた、ということを思い出した。
すべての授業が野地先生や門倉先生の授業のようにおもしろかったら、
息抜きの時間がないではないか。


明日は会議で休日出勤。ずーん。
でも、堀江敏幸と川上美映子がそれぞれ別の機会に、
「国語の教科書のおかげで文学に目覚めた」と語っていたので、
まあ、そんなことをささやかなハゲミにして、仕事に邁進しますか。