人の書いたものとつきあう仕事

水曜日、通っていた翻訳学校の仲間と会う。
木曜日、うちの同居人にとって節目となる大切な日だったので、午後休暇をとる。


水曜日、以前わたしが翻訳学校の先生に頼まれて朱いれとアドバイスをした新人さんのことが話題になった。
お世話になっている先生からの依頼だったので完全なボランティアで、しかし原稿の出来が悪かったので、
原文とつきあわせながらかなり丁寧に朱いれをしたのだが、当の本人からは木で鼻をくくったような返事がきた。
余計なことをしてくれた、といわんばかりの、かなり攻撃的な内容だったと記憶している。
よく事情を知っている友人によれば、「それは間に入った先生が悪い」ということなのだが、わたしは、
こういう反応しかできない書き手は、まず将来の見込みはないだろう、と思っている。


このときは翻訳学校の先輩として彼女の原稿に朱いれしたのだけれど、
現在のわたしはサラリーマン編集者として、「人の書いたものとつきあう」ことを仕事としている。
すでに刊行された本の形だったり、ゲラの形だったり、手紙やメモのようなものだったり、形態はいろいろ。
でも、どんなものであっても、自分がつきあう「書かれたもの」に対しては、常に真剣勝負、
書き手がどんな思いで、どれだけの時間をかけて、それを書いたのかをしっかりと受け止めて、
朱いれをしたり感想を書き送ったりするようにこころがけている。


もちろん、朱いれの指摘が部分的に間違っていたり、感想が的を射てなかったりすることは、おうおうにしてあるわけだが、
でも、そうやって書き送ったゲラや手紙に対して、腹を立てたり露骨に気分を害したり、という対応をされることは、ほとんどない。
(まったくない、とは言わない。)
書き手の人たちはわたしの地位や年齢や性別と関係なく、「自分の書いたものを真剣に読んでくれた相手」として、つきあってくれているのだと思う。


自分の書いたものを直されるというのは、だれだって気分のいいものではない。
わたし自身も翻訳の仕事をしていたので、その気持ちはよくわかる。
「えー、全然わかってないよ〜」と朱いれした編集者に文句を言いたくなるときだってある。
でも、少し冷静になって、編集者はどうしてここに朱をいれたのか、どうしてここにひっかかったのか、
よく考えてみると、たいていの場合はわたしの側に、ひとりよがりな思い込みがあったりするのだ。
もちろん、どうしても譲れないところはあるから、そこについてはきちんと説明をして、ここはこういう思いがあって、
だからこの訳しかありえないと思うのだ、などと生意気にも言ってみたりする。
編集者は、なるほど、そうですか、では、こうしてみたらどうでしょう、などと、提案をしてくれたりして、
おお、それはすばらしい、それでいきましょう、などという幸福な結果が生まれることだってあるのだ。


わたしがこのような、サラリーマン編集者としてはちょっと手間のかかる仕事の仕方をするようになってしまったのは、
「元祖・売れない編集者」である同居人の影響が大である。
木曜日は、うちの同居人が7年編集長をつとめた雑誌の最後の校了日だった。
前夜おそくまでかかって、最後の「編集後記」を書いていた。見せてもらったけれど、
彼らしい、いい「編集後記」だなあ、と思った。
その雑誌の編集長をやっていたときも、その前の教育雑誌の編集長をやっていたときも、単行本の編集をしていたときも、
とにかく彼は、寝てもさめても「人が書いたもの」について、あるいは「それを書いた人」について、考え続け、語り続けた。
だからわたしは、会ったこともない著者たちのことを、ものすごくよく知っている。


「人が書いたもの」とつきあう仕事は、じつはものすごく深くその相手とつきあう仕事なのだ。
ちょっとした言葉遣いや言い回しにひっかかり、こだわり、やりとりをする。
一見、無駄と思えるような膨大な時間をこのことに費やしているうちに、相手の肉声が聞こえてくる。
これが編集の仕事の醍醐味、と思う。


今日は久しぶりに5時起き! 同居人が「ジョギングするぞ!」とはりきっているので、ここまでで。