上からものを言われるのがキライだ

ここのところの仕事の不調が、本日、ピーク。
会議の途中で席をたとうかと思ったがこらえた。
この会社に入ったときから感じていることなのだけれど、
何だかしらないがやたらと、不必要に人を傷つけるような、
あるいは人を縛りつけるようなことばが、とびかっている。
やっとそれが終わったと思ったら、ありがたいお説教。
間違ったことを言っているわけではないけれど、
少なくとも業務上の「会議」でなされる話ではない。


この感じ、いつかどこかで経験したことがある。
そうだ、中学校の教室だ。
わたしの職場の上司と部下の関係は、まるで中学校のダメ教師と生徒の関係のよう。
先生は、お気に入りの生徒の話はうんうんうなずきながら聞くが、
くせのある生徒や反抗的な生徒に対しては、あらゆる宿題、発表を徹底的にけなしていく。
最初から「けなす気」満々で、「けなす」ために発表させているのかと思うことすらある。
先生の気分のムラや、だれがお気に入りなのかは生徒にはまるみえなので、
要領のいい生徒は、なるべく無難に時を過ごすべく、黙ってしずかに「攻撃タイム」「説教タイム」が終わるのを待つ。


わたしが「中学校」と書いたのは、自分が中学時代以降、そういった経験とは無縁だったからだ。
高校でも大学でも、幸い、そういう「上からものを言う」先生には出会わなかった。
高校の部活の顧問はものすごく厳しい人だったけれども、ミスをしたり試合に負けたりすれば叱る(殴る、蹴る!)、
ただそれだけの単純な話だった。
一度だけ、その先生に叱られたことで腹をたてたことがあって、
それは、先生が見てもいない負け試合について、「よくも○○(ペアの名前)に恥をかかせてくれたな」と言われたときだった。
何のためにそんな言い方をするのか、その言い方に何かプラスの要素があるのか、そのときも、そして今もわからない。
だからこのことについてだけは、わたしは今も先生をゆるしていない。
(先生はもちろん、忘れていると思うけれど)


……と、話は脱線したが、かほどさように、わたしは自分が納得のいかないことで、
「上から(えらそうに)ものを言われる」のが、大キライなのだった。
大学は文学部などというところで学んだので、文学の先生が上からああしろこうしろというはずもなく、
演習の授業でも、卒業論文でも、伸び伸びと「珍説」を開陳しては、先生の苦笑をさそい、
研究者になりたいという意欲も実力もなかったわたしに、先生が圧力をかけるはずもなく、
幸福な大学生活を終えた。


最初に就職した先は、お茶くみコピーとりは女性の仕事、という徹底した「分業」の会社だったので、
女性は名刺もなければ会議も出席せず、よほど仕事をさぼるとか、ミスを多発するとかいうことがないかぎり、
考え方を「攻撃」されたり、生き方について「説教」されたり、などということはまずあり得なかった。
(もちろん、セクハラ、女性差別など、別の問題点はいろいろあった。)


それから数年後、中学校の教師になったけれども、たしかに職員会議はだらだらと長く、
理想や理念を語っている時間がずいぶん多いなあとは思ったものの、
「なるべく楽をしたい」という感じの事なかれ主義の先生が3分の1くらいいる職場環境の中では、
きちんと校務分掌をこなしている教員に対して、校長や教頭が「上からものを言える」はずもなく、
今ふりかえるとたしかに学校の先生というのは、若いときから一国一城の主で、「裸の王様」になりやすい職業だなあと思う。


考えてみると実家の父親も兄も、あまり上からものを言うタイプではない。
「○○しなさい」「○○するな」という命令形を使っている姿があまり想像できないし、
進学や就職、結婚(離婚)などの節目節目にも、こちらから相談をすればそれなりにアドバイスはしてくれるけれども、
基本的に「自分のことは自分で考えて決めればいい」というスタンスだった。
それはかなり小さいときからそうだったようで、今思うと、人から指図されるのを極端にきらうわたしの資質を見抜いていたのかもしれない。
ああ、そういえば、わたしがこれまでつきあった男の人の中に、
わたしの自由を束縛したり、考え方を矯正しようとする人は、ただの一人もいなかったなあ。


自分の恋愛遍歴まで総動員して確認したかったのは、
わたしは人一倍、マイペースで自分勝手で、人から指図されるのが大キライだ、ということ。
これ以上、自分の仕事の結果に対して、「感情的なマイナス評価」を下され続けると、
精神的にとてももたないんじゃないかなあ、ということだ。
だいたい、このような会議のスタイルって、ちょっと変わってるんじゃないだろうか。


今の会社に入ってまもないころ、今はもう会社をやめてしまったNさんという女性が、
部内の会議で企画を出した。名文選の録音CDのような企画だったと思う。「声に出したい日本語」が出る前だったから、
目のつけどころとしてはなかなかおもしろい企画だったはずだ。
たしかに、企画書の書き方など不十分だったかもしれない。が、
企画が出ることなどめったにない部なのだ。まずは企画を出したNさんはエライ、と思った。
ところが、である。この企画書に対する部員(上司も、同僚も)の反応はあまりにひどかった。
相手を傷つけること、相手に打撃を与えることに目的があるとしか思えないような物の言い方なのだ。
Nさんに人望がなかった、ということもあるのかもしれない。それにしても、
だれか一人くらい、企画のいいところを認めて、修正の具体的な提案をしてくれる人がいてもよさそうなものだ。
よってたかって、その企画がいかにだめかが、かなり強い口調で述べられた。
その会議が終わったあと、わたしはショックでしばらく立ち直れなかった。
こんな会社でやっていけないんじゃないかと思った。
仕事は、仲良しクラブではない。そんなことはよくわかっている。
でも、徹底的にけなしたり、感情をあらわに否定したりしてもいいことと、悪いことがあるんじゃないだろうか。
時間を守らない、約束を守らない、嘘をつく、といったことについては、厳しく対応するべきだろう。
でも、たとえば個々の企画や提案については、冷静に客観的にいい面悪い面を検討し、
企画者・提案者のモチベーションが下がらないようにことばを選ぶことも必要なんじゃないだろうか。


ふー。なんかぶわわわああと書いたら気が晴れた。
まあ、愚痴だよね、結局のところ。
「アタシに指図するな〜!説教するな〜!」ってだけのこと。
さあて、明日もにっこり偽りの笑顔を浮かべて出社するで〜サラリーマン!


最後に、読了本2冊。