人の文章を扱うということ

たとえば既訳のある本の新訳にチャレンジすることになったとする。
新訳をするとき、既訳を参考にするかしないかは、たぶん、人それぞれだと思う。
また、参考にする人の場合も、訳し始める前にがっつり「予習」する人、訳してる途中で「どうかな」とおもったときにチラ見する人、
最後まで訳してゲラになってから訳者校正に入る前に通読する人、など、参考の仕方はさまざまだろう。
それぞれメリット・デメリットがあると思うから、こうでなければいけない、とか、そんなやり方はとんでもない、とか言うつもりはない。

けれども、他人の既訳のテキストデータを使って、それを上書きしながら新訳をする、となったらどうだろう。
著作権が切れていれば、法律的には問題ないのだろうか。
著作権がいきている場合でも、「訳者あとがき」などに「○○さんの訳を参考にさせていただいた」などと書けば、既訳者に連絡などしなくてもOKなのだろうか。
自分だったら、と考えてみると、自分がかつて訳した本の新訳が出た、と聞けば、当然、購入して読んでみよう、と思うだろう。
もし同じ出版社からだったら、なぜ改訳が出るのか、自分に声がかからなかったのか、と相当くよくよするだろう。
それで読んでみたら、「新訳」として大幅に手はいれているものの明らかに自分の訳をもとにしているとわかったら、どうかな、やっぱり出版社に抗議するんじゃないかな。
自分が新訳者の立場で、出版社から既訳のテキストデータを支給されたとしても、まず使用しないだろう。
著作権のあるなしにかかわらず、手の入れ方の大小にかかわらず、法律的にどうあろうと、テキストデータの上書きをしたら、それは新訳ではない、と思ってしまうから。
もうちょっと言うなら、「○○さんの既訳のテキストデータ支給しますから、手間が省けますよ」などと編集者から言われたら、
その仕事を引き受けるのを躊躇してしまうかもしれない。


念のため書いておくけれど、このような事態が現実にわたしのまわりで起こっているわけではない。
テキストデータの支給がなんでもかんでもよくないと言っているわけでもない。
上記の新訳の場合だって、原著の内容や使い方によっては、うまく機能する場合もあるだろう、とは思う。
ただ、翻訳や編集など人の文章を扱う仕事をしている人間は、「書かれた文章」に対する敬意というか、それを尊重する気持ちを失ってはいけない、ということを、
入稿から販売まで、電子データで行うのがふつうになったいまの時代だからこそ、かみしめるべきなんじゃないか、と思うのだ。
法律的なことはさておき、翻訳であれ編集であれ、自分の仕事の仕方として、まずはその文章の「書き手」を尊重して進めていきたいし、
尊重したくなるような著者(または既存の文章)を選びたい、と思う。


出版大不況の中、仕事を効率よく、安価な労働力で進めることが求められている。
ひとつひとつの原稿とじっくり向き合って、著者と丁寧なやりとりをして、という進め方が理想だとわかっていても、現実的に厳しいこともまた事実。
それでも、なんとかがんばって、自分が大切だと思っている部分になるべく時間とお金をかけられるよう、まわりの人にもはたらきかけていきたい。


あああ、せっかく代休消化で家にいるのに、午前中ずっと、仕事のことを考え続けちゃった。
こりゃ、ワーカホリックだな、と思う。
同居人がつくってくれたお弁当を食べて、午後はのんびり、部屋の片付けや読書でもしよう。