ねじめ正一『荒地の恋』
- 作者: ねじめ正一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/09/26
- メディア: 単行本
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終始、涙ぐみながら読んだ。
荒地派の詩人で翻訳家の北村太郎の人生を描いた実話小説。
帯には、「五十三歳で親友の妻と恋に落ちたとき、詩人は言葉を生きはじめた。」とある。
…来年は定年だが家の借金の残りは退職金で完済できるはずだし、翻訳の仕事で生活のめども立っている。
今ここにあるのは、絵に描いたような家庭の幸福であった。詩人にとってはおだやかすぎる、そしてまた、
あのような出来事を通過した人間にとっては分不相応な幸福であった。
――たった、これだけかあ。
心の中で囁く声があった。お前が二十五年かけて手に入れたのは、たったこれだけかあ――。
「いいじゃないか、これで」
囁く声に、北村は言い返した。(12ページ)
このような生活をすてて、北村はなぜ、よりによって四十年来の親友の妻と恋に落ちたのか。
家族を捨てて、狭いアパートでの極貧生活を選んだのか。
もうこのあたりから、涙なくしては読めない。他人から見ると滑稽なくらい奇矯なのだけれど、
本人にとってはもう、ほかにどうしようもないのだ。
恋の相手である田村隆一夫人の明子もさることながら、平凡な主婦である北村の妻がどんどん毀れていく様子がつらくて、
もう、他人事としては読めない。
北村は残酷にも、自分が恋をしていることを妻に打ち明けるのだ。それも、この先どうするのか、どうしたいのかを自分自身が決めかねたままで。
夕食が終わったあと、湯飲みを手にテレビを見ている治子に「じつは好きな女性ができた」と言った。
「そりゃよかったわね。新しい部署に可愛いお嬢さんでもいたんですか」
治子は最初冗談だと思ったらしく、テレビから視線を外さずにそんな受け答えをした。
「真面目な話なんだ。ちゃん聞いてくれ」
明子への想いを茶化された気がして、北村はつい大きな声を出した。
「真面目、ですって?」
治子が向き直った。
「パパ、それどういうこと」
「ある女性を愛している。君には済まないと思ってる。でもどうしようもないんだ」
(26−27ページ)
うう……男の人っていうのはどうしてこうなんだ。このメロドラマのような場面のポイントは、
「明子への想いを茶化された気がして、北村はつい大きな声を出した。」という一文だ。
妻には何の非もない。自分が勝手に恋をしたのだ。なのに、この期に及んで、深く傷つけることになる妻への思いやりよりも、自分の恋の一途さのほうが大事なのだ、この男は。
このあとの治子さんがかわいそうでかわいそうで、でも北村のこともなんだか憎むこともできなくて、
ただおろおろしてぽろぽろ泣きながら読み進める。
一方、堅実な北村夫妻とはまったく異なる田村隆一夫妻もまた、別の哀しさをかかえている。
この明子という女性は、多くの女性読者の反感を買うだろう。
夫の親友に涙ながらに人生相談をするなんて、最低じゃないか。それでひっかかる男も男だけれど。
見境なく電話をかけてきたり、不倫相手の家を車で見にいったり、自殺未遂をしたり(それも「予告電話」つき)。
でも、わたしは北村が憎めないのと同じように、明子さんという人も嫌いになれない。
明子が奇矯な行動をとるたびに、そうだよね、苦しいね、と話しかけながら、また涙してしまうのだ。
はっきり言って、この小説に対するわたしの感情移入のしかたは、常軌を逸しているような気がする。
北村太郎という人を長年、翻訳家として尊敬してきた、ということも関係しているのかもしれない。
はじめて北村太郎という人を「名翻訳家」として意識したのは、翻訳学校に通い始めたばかりのころに聞いた、
北村の「不思議の国のアリス」の翻訳の話だ。
詳しいことはよく覚えていないが、作品中の会話に出てくる、Who are you? を、北村が「あーた だーれ?」と訳した、
というような話だった。翻訳ってすごいんだな、いろんなことができるんだな、と思った。
以後、わたしの中で北村太郎は、「あーた だーれ?」の翻訳家として記憶に残った。
その北村さんが、晩年、こんなに苦しい生活をしていたのか。
小説の後半、横浜駅ビルの喫茶店で若い恋人と待ち合わせをしている北村が、印税の計算をする場面がある。
55×0・8=44。44×0・85≒37。37×50000=1850000。
これは先月出たミステリーの翻訳の印税である。最初から文庫で、人気のある作家だから初版五万部。
入金は十一月二十五日のはずだ。これが入ると一息つける。
今年中に入る予定は、ほかには絵本の翻訳が二本で三十万。新聞のエッセイが一回二万の五回で十万。
あとは一万円以内の詩や雑文が六、七本。合計二百三十万ばかりになる。(292ページ)
この数字のリアルさが胸をうつ。切ない。
このあと北村は若い恋人と横浜駅近くのホテルに行く。
そしてその後、横浜のそごうデパートのからくり時計を見にいくのだ。
この場面がわたしは好きだ。死を意識した六十代の北村と、若い看護婦の恋人が、手をつないでからくり時計をみあげている。
「この音楽、なんて言うの」「イッツ・ア・スモール・ワールド」という会話が、哀しくて哀しくて、
わたしの頭の中で、いつか聞いた「イッツ・ア・スモール・ワールド」の明るいメロディーがひびきわたって、
今もまた、この文章を書きながら、涙があふれて止まらないのだった。
北村太郎は幸福だったのだろうか。ねじめ正一は小説の最後を、この若い恋人の手記の形でしめくくる。
恋人は北村のお別れの会で、北村の双子の弟に会い、「私、北村さんの恋人だったんです」と自己紹介する。
すると弟は、別れ際に「北村太郎を幸せにしてくれて、ありがとうね」と言う。
これが、さきほどの疑問に対する、ねじめ正一の答えなのだろう。
なんとか涙を止めて、同居人の眠っている部屋に行った。
冷えピタを額にはったのんきな寝顔をながめていたら、会ったこともない北村太郎の顔と重なった。