サイエンス・カフェ「外国文学研究者はいま何を考えているのか」

前夜めずらしく熱を出した(37度5分)のだが、この催しはどうしても行かねばという思いで37度まで熱を下げ、
いそいそと会場の青山ブックセンターへ。
用意されたマイクが必要ないくらいの、こじんまりとした会だったけれども、
4名の「専門家」のお話が期待以上に実り多く、さらに会場の「素人」の質問が思いがけず鋭かったりして、
なかなか充実した時間をすごすことができた。


野崎歓さんのお話はこれまでにも何度か聞いているけれども、
そのたびに新しい感激があり、共感を強くする。
わたしはたしかに野崎さんのファンだけれども、それは野崎さんの見た目がすてきだからとか、
そういう下世話な理由からではない(いや、まったくないかというとちょっと自信がないけど)。
野崎さんの外国文学に対するスタンスの根底には、
中高生のころに夢中で読んだ外国文学作品たちに対する熱い思いがまずあって、
その作品そのものに対する情熱を、立派な研究者となった今もなお、薄れることなく持ち続けているように思う。
以前にも書いたけれども、わたしは読んだ本についてそれがどんなに面白いか、どんなにすばらしいかを、
夢中になって話すときの男の人がとても好きだ(いや、別に男の人じゃなくてもいいんだけど、まあ、とりあえず)。
外国文学に限らず、「文学研究」なんてものは、そもそもそういう素朴なところから始まっているものなんじゃないか。
「この作品はこんなふうにおもしろいんだ、だれも気がついてないかもしれないけど、実はこんなしかけがあってさ、
 ちょっと調べてみたら、実はこ〜んな史実があるのだよ、ふふふ」みたいなことを、ちょっと大がかりにかしこまってやってる、
ってことなんじゃないか。


そしていつもなら、ここで「批評理論」ってやつはわかんないよな〜という展開になるのだけれど、
今日のわたしはちょっとちがうのです!
なぜなら、このサイエンス・カフェで野崎さんのあとに話した、英文学者の田尻芳樹さんのお話がすばらしかったから。
1983年、田尻さんが大学1年のときに、浅田彰『構造と力』が刊行された、というお話から始まり、
ご自身の体験をふまえながら、日本と世界の思想・言論界の大きな流れのようなものを、短時間で、実にわかりやすく解説してくれた。
もちろん、専門家が聞けば、「そんなに単純化してどうする」とか「なぜ誰それの理論をとりあげない」とか、異論はたくさんあると思う。
でも、今現在のわたしの理解レベルにとっては、後で調べたらわたしと同い年の田尻さんのお話が、ちょうどぴったりだったのだ。
これまでは名前が出てくるだけで、思考回路がシャットアウトだったデリダとかバルトとかサイードとかいう人物のことを、
もうちょっと知ってみてもいいんじゃないか、
わたしには関係ありませーんと逃げ回っていたポスト植民地主義ジェンダー理論、新歴史主義のことだって、
わかりやすく説明してくれそうな人の話には耳を傾けてみてもいいんじゃないか、
そんな気分になったのだから。
素人に理解できることばで話をしてくれる専門家の存在は、どんな業界だって貴重だ。


それに関連して、後半の会場の参加者との対話でとても興味深かったのは、
保険会社に勤めていてマーケティングが専門という若い方とのやりとりだった。
当日の朝ネット散歩をしていて偶然この会合を知り、ふらりとやってきたというこの人は、
外国文学どころか仕事に関係のない本はほとんど読まないという、完全な「門外漢」なのだが、
前半の「専門家」たちの話の概要と力点を正確に把握したうえで、
かなり刺激的な提案や質問をして会を盛り上げてくれた。
結局のところ、話題は、「文学研究はそれを生業としていない人にとって役に立つのか」ということだったように思うけれど、
微妙なニュアンスをともなったやりとりをうまく再現できそうにないので、ここでやめておく。
(家で同居人に話そうとしたのだが、どうもうまく伝わらず、誤解をまねいてしまったように思うので。)


最後に文学研究というより文学そのものの今後についての質問があり、
こういった話題のときにはがぜん、野崎さんのお話が輝きを増す(と、わたしは思う)。
「文学の世界には2つの時間の流れがあって……」と言って話しだした文学の未来に対する期待と希望は、
文学研究とは遠い平凡な一読者であるわたしに、「ああ、この人(たち)についていけばいいんだ」という安心感を与えてくれた。


熱をおして出かけていった甲斐があった。いいイベントだった。