滑稽な日常と小説について話すこと

「初日から挫折するんじゃないの?」という同居人の冷ややかな視線に耐え、
とりあえず1日だけ、11時就寝5時起床、をためしてみる。
さらにはりきって、7時からは玉川上水沿いをジョギング!
お弁当の出来も上々、朝食もばっちりとって、なかなかいい調子……。


と思っていたのだけれど、電車の中で『新アラビア夜話』(←まだコレ読んでるのかあ、という感じ)を読み始めたら、
もう眠くて眠くて、だめ。なんとか「自殺クラブ」のほうを読み終えたところで、パタリ。
「自殺クラブ」は子どもの頃に子どもバージョンで読んだはずで、ものすごく面白く、ドキドキして読んだような記憶があるのだけれど、
いま読み返してみると、ストーリーそのものは案外他愛もない話だった。
ただ、あとがきにもあるように、「19世紀ロンドンの都市奇譚」として読めば、翻訳の見事さも手伝って、
ものすごく魅力的な作品でもある。


それで、この「自殺クラブ」を読みながらふと、昨日の自分が書いた文章のことを思い出してしまったのだ。
わたしは昨日、「作者や登場人物に共感したり、自分を投影したり、読み終わってから自分の人生のことをつらつら考えたり、
それこそが小説を読むことの醍醐味なのであって、自分に対して何の影響も及ぼさない読書は、
わたしにとっては「お勉強」や「お仕事」であって、「楽しみ」ではないんだなあ。」と書いた。
で、「自殺クラブ」をわたしは楽しく読んだけれども、これはわたしに対してなんらかの影響を及ぼしただろうか、というと、
そんなことはないような気がする。でも、「お勉強」「お仕事」モードではないことは間違いない。


というわけで、前言撤回。共感的に読まなくても、楽しい読書ってのは存在するみたいでした。
昨日あれほど熱く「共感的に読む」ことにこだわってしまったのには愚かしい理由があって、
つい先日、恩田陸の高校生を主人公にした小説をめぐって、登場人物に自分自身を重ねて読んでいくことに対して、
ある「小説読み」からかなり厳しく批判され、ちょっとやけを起こしていたのだ。
「どーせ、わたしは高級な読者じゃないですよーだ」「でも一般読者の味方だもんねー」という気分。
読んだり書いたりすることが、そのとき自分に起きている滑稽な日常に直結してしまうというところが、
どうやらわたしの悪い癖のような気がする。


『新アラビア夜話』については、「ラージャのダイヤモンド」のほうも読み終えたら、引用も含めて感想を書くつもり。
結局、慣れない早起きをしたせいなのか、あるいは月曜日ということで仕事が山積みのせいなのか、
お弁当がとてもおいしかったということ以外は、なんだかぱっとしない1日を終え、
帰りの電車の中で同居人から、「今日の書評空間、見た?」と言われても、
ぶすっとして「忙しくてそんなの見る暇なかった」と答えるのみで、
「なんか今日不機嫌だね」と言われ、あー、ほんとうにそうだ、どうしちゃったんだろう、と思い、
そうだ、やっぱり寝不足のせいだ、今日も11時に寝よう、と早々に布団に入り、
5時に起きて同居人が言っていた「書評空間」の記事を読み、
うわあ、やっぱりすごい、おもしろい、とあらためて「小説について話すこと」の楽しさを確認したとろで、
わたしの「滑稽な日常」がはじまる。
早起き2日目突入したもんね〜!


*ちなみに上で書いている「書評空間」の記事というのは、阿部公彦氏の小島信夫『残光』の書評記事です。
とりわけ「小説には必ず『理』の部分と『情』の部分がある。」で始まる一節は、
いまのわたしの疑問に対する「高級な読者」からの親切な答えのような気さえする。