『黄金のノート』を共感的に読むということ

2週間ほど前にレッシング『黄金のノート』を読了したとき、わたしは、
「3回くらい読み返す価値はあると思う。」と書いた。
そして、「初読の今回は単純にストーリーを楽しんで読んだけれども、
2回目に読めば作者の「仕掛け」のようなものにもっと敏感になれるだろうし、
3回目には苦手な批評っぽい読み方もできるかもしれない。」と書いた。


読み終えてからすこし時間がたっているけれども、この感想は変わっていない。
そして、書いたときはあまり意識していなかったけれども、
わたしなりのことばで、ここのところ仕事柄ずうっと考え続けている、
「なぜ文学(小説)を読むのか」という問いに対するこたえを記していたようにも思う。


ここのところレッシング関連の論文を読みまくっている同居人の話によれば、
レッシング自身は読者の多くが「わかる、わかる」「わたしのことのようだ」というような、
共感的な読み方をすることに対しては、やや批判的らしい。
それはほんとうにそうなのだろう、『黄金のノート』を読むと、上に書いた2回目・3回目のような読み方、
つまり、作者の「仕掛け」=物語の構造、に注目して読む、とか、
フェミニズムやポストコロニアリズムマルキシズム等々、既存の「イズム」で括って読む、とか、
わたしのような素人だってちょっとやってみたくなるくらい、おいしそうな素材が満載なのだから。
だからこそ、ノーベル賞なんて授与されちゃったりするのだろう、と思う。


でも、でも!!
普通の読者としてわたしは、やっぱり初回の「わかる、わかる」「わたしのことのようだ」という読み方に、
どうしてもこだわりたいのだ。
作者や登場人物に共感したり、自分を投影したり、読み終わってから自分の人生のことをつらつら考えたり、
それこそが小説を読むことの醍醐味なのであって、
自分に対して何の影響も及ぼさない読書は、わたしにとっては「お勉強」や「お仕事」であって、
「楽しみ」ではないんだなあ。


この小説にはたくさんの女性が登場する。主人公のアンナ、親友のモリー、アンナが書く小説の登場人物であるエラ、モリーの元夫の妻マリオンなど。
多くが知的な職業人で、「自由な女たち」なのだけれども、
読んでいくにつれて、彼女たちがなんとも愚かで、傷つきやすく、
「こうありたい」「こうあるべき」という気持ちと現実との間で迷い、揺れ、失敗していることに気づく。
男性との関係、仕事への取り組み方、社会・政治運動へのかかわり。
そのひとつひとつの具体は、わたしのそれとはまるでかけ離れているのだけれど、
その迷い方、揺れ方、失敗の仕方が、「わかる、わかる」「わたしのことのよう」なのだ。


かくしてこの本を読み始めて数分後には、わたしはアンナやモリーの友人になり、
小説の中に入って彼らと会話している。
「それはひどい男だよね」「それは無理もないよ」「もっと自分の思うとおりに行動しなくちゃ」「わたしの場合はね……」。
わたしのことばはアンナやモリーにはもちろん、作者レッシングにも届かないけれど、
わたし自身の中ではこの本を読んだことで、小さいことかもしれないけれども何かが変わっている。
彼らと架空の時間を共有し、「感情・情緒」を表現することばを交わしたことは、
だれに何といわれようとわたしにとってはかけがえのない体験で、
文学を読むことの価値のいちばんの根っこは、やっぱりここにあるんじゃないだろうか。


この英雄社刊行の『黄金のノート』は、いまは古書店でもなかなか手に入らないときいたので、
どこか少しでも引用を、と思ったのだが、なかなか引用の難しい作品で、決まらない。
ここが作品の「ヤマ場」と思う箇所などとても見つけられないのだけれど、
レッシングの作風を「時代精神と事実報告と自伝のまぜこぜ」(「訳者あとがき」654ページ)と要約した場合、
それがよくあらわれていて、わたしが「わかる、わかる」とアンナに話しかけた場面を、引用する。
派手さはないが丁寧で上品な翻訳の上手さが伝わるとよいのだけれど。


   ……質問を受けた。なぜわたしがローゼンバーグ夫妻の助命嘆願をするのか、プラハのでっちあげ事件でつかまった人は放っておくのか、というのだった。
   筋の通った返答ができない。ただだれかがローゼンバーグ夫妻の救出運動やらねばならないと答えるだけ、いやになる――わたし自身に対して。
   またローゼンバーグ夫妻急救出の署名を拒む人に対して。わたしは疑念だらけ、嫌悪だらけの空気を吸って生きている。
   今日の夜、モリーが泣き出した。まったく突然だった。わたしのベッドに坐って今日起こったことを話しているうち、ふいに泣き出したのだ。
   声をたてず、とめどなく涙をこぼしていた。なにかを思い出す、なんだろうと考える。
   そう、メアリローズだ。「なにもかもすばらしくなると信じていたのに、そうもいかないとわかってしまった」と言って、
   ふいに顔に涙の流れ落ちるのをかまわず、マショピ・ホテルのあの大ホールで坐っていた彼女。
   モリーはメアリローズと同じ泣き方をしていた。新聞がわたしのいる床の上一面に散らばっている。
   ローゼンバーグ夫妻の記事と、東ヨーロッパのできごとを報じている。(161ページ、「赤いノート」の記述部分より)


さて、今週末は池袋のジュンク堂で、斎藤兆史×野崎歓の対談イベントがある。
なので今週予習として、斎藤さんの「翻訳の作法」と野崎さんの「赤と黒」を読まなくては。
「翻訳の作法」と「赤と黒 上」は既に購入済みなのだけれど、
赤と黒 下」は、19日にABC六本木で行われる野崎さんのトークイベントとのからみで、
購入を控えていた。でも、もう「先着30名さま」のサイン整理券は売り切れちゃったかもしれないし、
15日のイベントの前にちゃんと上下そろえて読んでおいたほうがいいかな、と思うので、
19日のサインはあきらめて明日にでも「赤と黒 下」を買おうっと(15日だってサイン会あると思うし……)。


夕飯、何をつくろっかな。忘年会シーズンで同居人ともども胃が疲れ気味なので、
何かおなかにやさしい、ほっとするようなものを。