フィクションはたのしい

今週は30パーセント仕事がらみで江國香織・児童書三昧。

がらくた

がらくた

読了。江國さんの小説はいつもそうなのだけれど、気がつくと思いきり世界に没入していて、あっという間に読み終わる。
この小説は主人公の40代女性が翻訳家という設定。なのだけれど、
わたしの知っている翻訳家の生活とはずいぶん違っていて、ものすごくおしゃれなのだった。
冒頭の海外リゾートでのアバンチュール(このことば、古いか……)からして、私の生活実感からするとリアリティーがないのだけれど、
これがまったくリアリティーがないというわけではなく、
「ああ、こういう人たちもいるんだろうなあ……」とぼんやり憧れるような感じのリアリティーがある。
「夫」をはじめとする男性との関わり方にしても、独特の雰囲気のある母親の存在にしても、
また、「もう一人の主人公」とも言うべき15歳の魅力的な少女にしても、
わたしの現在とははるかにかけ離れているのだけれど、全然関係ナーイ!という感じではない。


以前、江國さんの「ねぎを刻む」という短編を精読したことがあるのだけれど、
これを読んだときには、とにかく、主人公がひとりぼっちの夕食のしたくを整える際、
「おしょうゆつぎをだす」ところにひかれた。
一人暮らしで冷奴を食べようというとき、台所でおしょうゆをかけてしまったり、
スーパーで売っている使い捨ての小瓶しょうゆを食卓に出したりするのではなく、
陶器でできたおしょうゆつぎを、「いただきます」をする前に、きちんと食卓に出す。
自分ひとりのために。
これを、「おしょうゆつぎのリアリティー」とよぼう。
こういう感じが、山本文諸とか、篠田節子とか、小川洋子とか、私が好きな女性作家にはあるのだ。
こうなるともう、ブンガクの理論なんてどうでもよくなって、ただひたすら、夢中になって読み続け、
多くの場合、止まることができなくて、読み終わるまで寝ない、仕事をさぼる、というような、フトドキな事態に陥るのだった。
フィクションはたのしい。


今日は子どもの本の読書会。
課題だった本3冊読了。前にも書いたように、これについての感想はひかえて、とりあえず書名のみ羅列。
読書会はとにかくハイレベルで、知識の量、読みの深さ、あらゆる面であきらかに自分が一番劣っている。
なんだか情けないけれども、かくなるうえはスポンジのように、皆さんの言っていることを吸収することに努めよう、と考える。
次回はもう少しインパクトのある、内容のある意見が言えるように、
もっとしっかり本を読んで準備してのぞまなければ、と反省。

いたずらおばあさん

いたずらおばあさん

マチルダばあやといたずらきょうだい

マチルダばあやといたずらきょうだい

頭のうちどころが悪かった熊の話

頭のうちどころが悪かった熊の話


ちょっとここ数日、会社員としての自分がいやになっている。
チームで仕事をしていくということは、周囲の人が自分とは異なるペースで働くということを常に考えにいれておくべき、
なんてことは十分にわかっているつもりなのだけれど、
チームとしての仕事がどんどん遅れていって、ミスがどんどん重なっていくと、
口を出さずにはいられなくなってしまう。
少しずつ少しずつ、言い方もきつくなって、本意ではないのに、年上の人や男性に向かって、
教師か親みたいな口調になってしまう。
たぶん私の中にどこかそういう要素があって(なにしろ元教師だし)、そういうことを忌み嫌っているのでふだんはあまり表に出ないのだけれど、
仕事が煮詰まってきたり、締切に迫られたりすると、噴出してしまうのだろう。
そういうときにふと、あー、いまあたし、みにくい顔をしていただろうな、と思い、
あー、やっぱりチームでする仕事は向いてないんだな、と思う。


でも今日は、単行本関係でちょっと嬉しいことが。
販売部の人が、わたしの担当している単行本について、熱心に質問にきてくれたのだ。
先日の会議でも、営業のエライ人が、わたしが以前に言ったことを覚えていてくれて、
それをふまえて販売面でのアドバイスをくれた。
視野のせまいわたしは、編集の仕事だけできりきりしてしまっているけれど、
販売や、印刷や、デザインや、そのほか大勢の人たちの力で、本はつくられていくんだよなあ、とあらためてしみじみ。
そう考えたら、チームでする仕事は苦手、なんて言ってる場合じゃないな、とも思うのだった。


いよいよこれから、レッシング『黄金のノート』に挑戦。
ただし、ものすごく分厚くて重いので、電車の中ではとても読めない。
レッシングを自宅用として、出先用の本として、鞄には古典新訳文庫「新アラビア夜話」をいれた。
明日から社員旅行。伊香保温泉。せっかくだから、いやなことはとりあえず忘れて、のんびりしてこよう。