1960年代前半に生まれて―『滝山コミューン』『悲望』

昨日の夜遅く、ベランダ用に買った鉢が届いた。
早速、プランターに移しかえ。暑くなる前にと9時過ぎからはじめたのに、汗がぼたぼた落ちてくる。
今日は洗面所とバスルームをきれいにする日。作業にとりかかる前に、先送りにしていた2冊の本の感想を書いてみようと思う。


『滝山コミューン』の著者、原さんと、『悲望』の著者、小谷野さんは、ともに1962年生まれ。わたしより少しだけ、お兄さんである。
70年代に義務教育を受け、80年代にキャンパスライフを送った、という意味では、ほぼ同世代と言っていい。
だから、どちらの作品も、描かれている時代の雰囲気のようなものはとてもよくわかる。
そうだった、そうだった、と、もうすっかり忘れてしまった体験が次々に思い出されて、同居人に、
「わたしの通ってた小学校(大学)はね……」と語らずにはいられない。
こんなふうに、読後、あるいは読書中に、何か語らずにはいられなくなる作品というのは、もう、それだけで十分にすぐれている、とわたしは思う。
そして少なくともわたしの場合、このように「語らずにはいられなくなる」のは、
描かれている世界に90パーセントまで共感しているのだが、
残り10パーセントに違和感というか、(この言葉は適当じゃないかもしれないけど)不快感、のようなものを感じているときが多いような気がする。
そしてこの2つの作品に対する違和感は、わたし自身の体験は、原さんの「滝山コミューン」や小谷野さんの「東大英文科大学院」ほど特殊な環境ではなかった、ということもあるだろうけれど、
それ以上に、わたしは「女子」だった、ということが大きいのではないかと思っている。


たとえば『滝山コミューン』にさかんに登場する「班活動」。
この部分を読んで突然思いだした。そうだった。4年生まで通っていた杉並区の公立小学校では、何をやるにも「班」で行動していた。
「勉強も運動も得意で明るく積極的な女子」だったわたしは、当然のように班長をやり、今思うと何の意味があったのだろうと思うような、
学校ならではのローカルルールを班員に徹底すべく、厳しく取り締まっていたのである。
当然、クラスには原少年のような、ちょっと斜にかまえた男子もいて、そういう男子はおとなしめの女子を味方につけ、
「先生に気に入られようとして躍起になっている」優等生女子を、冷ややかに眺めていた。
ああ、今となっては数多い人生の汚点の一つなのだけれども、当時は一生懸命だったし、迷いもなかった。
四谷大塚に通って私立の中高一貫の男子校に進んだ原少年とは違って、
熱血優等生女子は地元の公立中に進み、小学校時代とは一転、暴力の支配する教室をなんとか生き抜き、公立の進学校に入ってやっと、
「優等生女子」のいやらしさのようなものに気づく。


たとえば『悲望』の主人公藤井の結婚観は、こんなふうに描かれている。


  三年生の終わり頃、サークルの先輩同士が、いずれ結婚するんだろう、という話を聞いてから、
  ようやく私の頭にも「結婚」という二文字が浮かび始めた。学者か作家になり、書斎で仕事をしている私の部屋の戸を、
  その頃好きだった女の子がエプロンを掛けてとんとん叩いて、
  ご飯ですよ、と言う図を想像しては悦に入っていた。(14ページ)


また、藤井がストーカー的な愛情を捧げる「たかむら(本文漢字一字)さん」という女性はいわゆる「お嬢さま」であり、
藤井はこの小説の中で、彼女が「お嬢さまであることが、私の中に新たに『お嬢さま願望』を醸成し、そのお嬢さま願望ゆえにたかむらさんを美化するという相乗効果が起きた」と記している。
今考えると何とも古い結婚観・女性観だけれども、当時はまちがいなく、こんな感じだった。
1980年代、世はお嬢様ブームで、ファッションもしぐさも、男性に好かれそうな、甘くかわいらしく、清潔感のあるものが受けた。
そして、お嬢さまたちが狙っていたのは、「3高」と呼ばれる、「高学歴・高身長・高収入」の男性と結婚し、豊かな専業主婦の生活を送ることだった。
だから、身長はともかく、東大卒で高収入の学者か作家になる予定だった藤井が、「粘ればうまくいくかもしれない」とはかない期待を持つのも、わからなくはない。


さて、公立高校からお嬢さん大学に進学した「もと優等生女子」は、ここでも時代の空気にのって、「お嬢さま路線」を突っ走る。
藤井の願望そのままに、「お料理も得意で、尽くすタイプのわたし」を演出してみたり、
自分に好意をもっているらしい男子の気を、遊び半分でひいてみたことも、あったかなかったか。
まわりも同じような感じで、当時、名門医大生とつきあっていたわたしに、「合コン」の依頼が殺到した。
ただし、「お嬢さま」たるもの、そんなふうにふわふわしながらも、自分の商品価値を落とすようなことは絶対にしない。
だから「お嬢さま」たちは、愛想はいいけれども決して落ちないのだ。
たかむらさんの意志とは関係なく、藤井が翻弄されていった所以はこのあたりにあるのかもしれない。


この小説は、「たかむらさんは、まだ独身らしい。」という一文で終わる。
著者のあとがきによれば、この一文はいろいろ取り沙汰されているらしいが、
わたしは純粋に小説としてこの作品を読み、「そうだろうなあ」と思った。
あのころの「お嬢さま」たちは、今、どうしているのだろう。
ずっと独身の人もいれば、結婚→離婚した人もいる。
子沢山で髪ふりみだして家事をしている人もいるだろうし、不倫している人もいるかもしれない。
たかむらさんも含め、だれが幸福で、だれが不幸だなんて言えない。
わかっているのは、皆、同じ時代の空気を吸って、20代前半を過ごし、多かれ少なかれ、それをひきずっているということだ。


こんな読み方をする読者がいることを見透かしたように、
『悲望』には2000年代を舞台に30代前半の女性学者を主人公にした中篇「なんとなく、リベラル」が併録されている。
いよいよ、女性主人公の登場だ。
ところが、である。わたしはこの主人公に、共感できないどころか、うっすらと反感さえもってしまったのだ。
それは、家族に、先生に、優れた男性に、認められ、庇護されることによって幸福を手にいれようとしてきた自分とのギャップを、
つきつけられているような気がするからかもしれない。
この女性主人公は、わたしが大学で学んだのと同じ学問(英文学)を学び、大学院に進学し、留学し、助手を経て講師の口を得る。
志を同じくする大学教師の夫がいて、夫婦で思想系の雑誌の編集委員をつとめている。
学内の人事に端を発して心を病み、一時休職するも、復職。何事についても、自分の意見をきっぱりと表明することができる。
こういう、すぐ下の世代の「リベラルな働く女性たち」に対して、わたしは常に、引け目のようなものを感じている。
心を病むほどがんばらなくてもいいんじゃないかなあと思いつつ、口に出すことはできない。
そういえば、この世代の「リベラルな働く女性」から、「あなたはいろいろな場面で折り合ってきた人だと思うけれど、
わたしはあなたのそういうところが好きになれない」とはっきり言われたことがあったっけ。


……小説の感想を書こうとしているのに、話がどんどん自分のことになってしまった。
それにしても同世代作家、小谷野さんは、どうして女性を主人公にするときは、すこし下の世代を主人公にしたのかな。
こういう小説はどうしても、「モデル問題」というのがついてまわるだろうし、正直わたしも読みながらつい、モデルを詮索したりもしてしまったのだけれど、
わたしはこの二作品を読んで、あのころわたしのまわりには、たくさんの藤井が、たかむらさんがいた、と思うし、
今のわたしのまわりには、たくさんの岡村朋が、七尾理恵がいる、と思うから、
やっぱりこの本は、小谷野さんの初の「小説」として、おもしろく読めばいいんじゃないかなと思う。
そういう意味ではわたしはむしろ、ノンフィクションとして書かれた『滝山コミューン』のほうが心配で、
ここに否定的な描かれ方で登場する先生や同級生などは、どんな思いでこの本を読むのかなあと思ったりもした。


昨日、『水滸伝5』『水滸伝6』読了。
続きを買ってこなければ。
その前に、洗面所とバスルーム、トイレの掃除か……うーん、いまいちやる気がしないな。