『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』

おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄) (光文社古典新訳文庫)

おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄) (光文社古典新訳文庫)

読了。
水曜日、高校時代の友人に会いに藤沢へ。
ここのところ「読みやすい」本ばかり読んでいるので、ちょっと手ごたえのあるものを、とこの詩集を鞄の中に。
小田急線の中で読み終えた。


かなり、苦手な詩人だ。
この文庫の表題になっている「おれにはアメリカの歌声が聴こえる」を読んだときは、
お、結構好きかも、と思ったのだけれど、その後も延々と続く、
「おれは……」「おれは……」に、だんだん暑苦しくなり、うっとうしくなり、
うわあ、もうわかったよお、という気分になってきた。
訳者あとがきにも、「こんな男がそばにいたらかなりやかましいだろうが、まあ憎めない奴、愛すべき男ではあるのだろう。」(169ページ)
とある。
ホイットマンの詩は、元気で、おおらかで、気宇壮大、自由で、あけっぴろげで、しばしば野卑」(169ページ)。
この解説を読んで、あれっ、と思った。何かに似ている……
そうだ、今わたしが熱心に読書中の「北方水滸伝」。
志のために命をかける男たちの熱い物語と、発想がそっくりなのだ。
水滸伝」の志の部分を取りだして、高らかに謳いあげた感じ、とでも言おうか。


それで思ったのだけれど、「水滸伝」は長大な小説だから、「おれ」の声がうっとうしくないのかもしれない。
何しろホイットマンが一人で引き受けている「おれ」を、水滸伝は100人を超える「おれ」たちでまかなっている。
その他の登場人物とのやりとりや細かい戦略、砦の詳細な描写などがさんざん描かれている上に、「おれ」の言葉は乗っているのだ。
だから暑苦しくない。押しつけがましくない。
一方、ホイットマンの「おれ」は……これはもう、好みの問題なのだろう。
たとえば抄録となっている「おれ自身の歌」のストレートなメッセージは、
人によっては聖典のようにひびくのではないかと思う。
たとえば最後の2連。


   おれの素性も、おれの言わんとすることもよくわからないだろうが、
   それでもおれはおまえのための「元気」でありつづけ、
   おまえの血をきれいにし、強くする。


   最初におれをつかまえそこねても、気を落とさないように、
   どこかで見失ったら、別のところを捜してくれ、
   おれはどこかで立ち止まっておまえを待っていてやる。(36−37ページ)


こういう「おれ」に救われる人も、救われる時も、あるかもしれないから。


翻訳について。
前から読んでいって驚いたのは、この強力な一人称「おれ」が、途中から「ぼく」に変わり、
最後に「わたし」になる、ということだ。
あとがきにもあるように、これはかなり冒険だったと思うけれども、
わたしは成功していると思う。
前に書いたように若い頃の一人称「おれ」が強烈な存在感を放っているので、
この一人称の変化に気づかない読者はまずいないだろう。
一人称の変化と同時に、全体の訳文のトーンも変わり、訳者がねらったとおり、
「血気さかんな男がだんだんと枯れていくさまを辿れるように」(188ページ)なっている。


それにしても翻訳は難しいと思ったのは、あとがきで引用されている、若き日の訳者が忘れがたい印象を受けたという詩句。


   A morning-glory at my window satisfies me more than the metaphysics of books.


   窓辺のアサガオを見ると心満たされる、本に並べられたゴタクなどよりはるかに。


うまい翻訳、非のうちどころのない翻訳なのだろうけれども、
morning-glory という単語から想像する朝の光の中の輝かしさは、「アサガオ」に翻訳されるとかなり光を失ってしまう。
さらに、私の個人的な感覚かもしれないが、「アサガオ」というとまず、小学校の理科の授業「アサガオの観察」が浮かんでしまう。
じゃあ、どうしろっていうんだ、と言われそうだけれど、どうしようもない。
ああ、つらい、苦しい、と思いながら、せめて「朝顔」よりは「アサガオ」のほうがいいかな、などと考えて、
最善と思われる訳文をつくっていくのだろう。


だから、原詩を併載しているこの古典新訳文庫版はとてもエライ。
「訳者としては何とも恐ろしいことながら」と書いているけれども、ほんとうにそうだと思う。エライ。
よくある「対訳」ではなく、原詩を巻末に載せるというスタイルもとてもいい。
それから、『草の葉』の全訳を読んだわけじゃないので単なる印象だけれども、
抄録の仕方もとてもいいように思った。
この飯野友幸訳の古典新訳文庫でなければ、わたしは「苦手な詩人」ホイットマンの詩集など、
読み通せなかったんじゃないかな。


さて、「おれ」の小説、北方水滸伝は、ついに9巻まで読了。
文庫で刊行されているのは、10巻を残すのみとなった。
さあ、どうしようか。文庫化されるのを待つか……途中から単行本に切りかえるか……悩みは深い。