ヴォネガットとわたし

ふだんは買わない「SFマガジン」だが、「カート・ヴォネガット追悼特集」にひかれて購入。

S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]

とくにヴォネガットが好きというわけではなく、どちらかというと敬遠していたのだけれど、
「英語青年8月号」でもやはり特集していて、その記事を読み、何作か読んでみようかなという気になっていたところだった。
SFマガジン9月号」を読み、その思いはますます強くなった。


追悼エッセイ「ヴォネガットとわたし」と題して、
池澤夏樹太田光、風間賢二、香山リカ川上未映子沼野充義若島正、の6名が、それぞれ2ページのエッセイを書いている。
読後の感想は、(清)氏の編集後記の書き出しの一文、そのままだ。
ヴォネガットを語る時、なぜみんなやさしく、ピュアになるのでしょう?」
とりわけ、追悼エッセイの冒頭の池澤夏樹氏の文章は、あまりにピュアで、はらはらしてしまうほど。


ヴォネガットの時代があった。」という書き出し、
ヴォネガットはぼくのスタイルだった。」という宣言。
そして後半、池澤夏樹はいくつもの「なぜ」を重ねる。


   なぜ世界はヴォネガット的にならなかったのか?
   なぜホールデン・コールフィールドが社会の主役になれなかったのか?
   なぜ世界は悪辣な大人たちによって奪還され、産軍共同体よりも邪悪な金融資本によってかくも蹂躙されているのか?
   なぜ若い人々は何を言う気力もなく、唯々諾々とこの愚劣な商業主義が提供する底の浅い娯楽に身を任せているのか?
   なぜ今もってこの世界はかくも醜悪なのか?
   (25ページ)


池澤夏樹はすぐにこの問いに自答する。


   なぜならばカート・ヴォネガットが充分に強くなかったから。
   ぼくたちみんなが無力だったから。
   方向が間違ってたのではない。足りなかったのだ。
   

   彼のメッセージにそれだけの力がなく、それを承けたぼくたちの世代に属する人々の多くが資本の側に寝返り、若者は再び発言の権利を奪われた。
   今はもう何か言う気力もないようにぼくには見える。
   (25ページ)


「けれども、」と池澤は続ける。


   けれども、このペシミズムを逃れて、この現実から離陸するために、読むべきはやはりヴォネガットなのだ。
   人格を壊す強い愛ではなく、人と人をそっと結ぶ友愛が人を救う。
   ローズウォーターさんはそれを実践している。
   (25ページ)


こんな文章を、あの池澤夏樹が書いているのだから、これはもう、ヴォネガットを読むしかない。
わたしはもう「若者」ではなくて、またしても(ドストエフスキーにひきつづき)「読書適齢期」をとうに過ぎているかもしれないけれども、
「人と人をそっと結ぶ友愛が人を救う」物語、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を、まずは読んでみようと思う。
(風間さんも、「これからヴォネガット作品に触れたいという向きには、普通小説の『ローズウォーターさん、……』が最適」と書いているし……)


池澤さんだけではない。芸能人などのイロモノはまあ、脇におくとして、
沼野さんや巽孝之さんの、この「普通っぽさ」は何だ!?(もちろん、いい意味で言っているのです。)
沼野さんなんて、出典を突き止められなかったヴォネガットの発言を引用して、
もしかしたら「私の勘違いで、ヴォネガットは本当はそんなことは言っていないのに、私の頭が勝手に捏造してしまったものだろうか。」(35ページ)
なんて書いている。この思い入れの激しさよ。
巽さんは8ページにわたる「追悼評論」の最後を、ヴォネガットが死んだ年齢が、彼の作品内作家キルゴア・トラウトと同年齢だったことに触れて、
何ともいえずピュアでセンチメンタルな一文で締めくくる。


   心やさしいニヒリストをついに地球から解放したのは、
   それこそトラルファマドール星人の操る超時空間の恩恵かもしれない。
   (45ページ)