先生とわたし

7月17日、四方田犬彦著『先生とわたし』刊行記念のトークショーに行ってきた。
「新潮」3月号に一挙掲載されたときに、会社の昼休みにお弁当を食べながら読み、思わず涙した評伝が単行本化されたのだ。
読了後、わたしの中には二枚のイメージ写真のようなものが残った。
一枚は、洋書を中心に古今東西のあらゆる書籍がところ狭しと並んだ研究室のソファに座り、パイプをふかしている「先生」の写真。
もう一枚は、日焼けしすぎて赤鬼のような顔色をした、背の高い短髪の「先生」の写真。手にはラケットを持っている。


この文章については、いろいろな方の書評を読んだ。
とりわけ、作品中の登場人物の一人である高山宏さんと、現在「東大英文科」で教える阿部公彦さんが、
「競演」している紀伊国屋の「書評空間」は、すばらしい。(しかも、タダで読める、というのがスバラシイ!)
だから、17日にトークショーに行ったのは、最初に書いた二枚のイメージ写真のうちの一枚目はともかく、
二枚目の「ラケットを持った赤鬼」のイメージを、自分の中でどう整理したらいいのか、その答えを求めていったように思う。


著者の四方田さんは、以前にも一度、ご講演を聴いたことがあったのだけれど、
高山宏さんを生で見たのは初めて。想像どおり、ものすごくインパクトのある、圧倒的な存在感のある人だった。
高山さんをよく知っている人たちに言わせると、この日の高山さんは、「いつもにくらべて元気がなかった」らしい。
それでも、わたしには相当ハイテンションで、頭の回転が早く、魅力的な人、に思えた。
高山さんはこの席で、「この本の前半3分の1は、文句なしにすばらしい」と言っていた。
本書の前半3分の1では、伝説の「由良ゼミ」がどのように学生たちをひきつけ、またその講義がいかに熱っぽく、レベルが高く、
人文科学を学ぶことの喜びに満ちていたか、が描かれている。
その場面を想像するだけで、なんだか胸がどきどきしてくる。わたしのイメージ写真の1枚目。
広大な知の世界へと自分を導いてくれる「師」への憧れがある。


続いて著者の四方田さんが話す。四方田さんはこの著作を、
「自分自身のオブセッションを書くことで『悪魔祓い』をしたように思う」と語った。
話はしだいに、由良さんの「負の部分」に入っていく。
この著作で明らかにされているように、少しずつ由良さんとは違う方向へ進み始めた四方田さんに対して高山さんが、
「人文学にはいわゆる『師』は必要ないのではないか」というようなことを言えば、
四方田さんは「由良さんは英文学の継承者として自分ではなく高山さんに期待していたと思う」と言う。
その一方で、由良さんにどんなひどいことを言われたか、どんなにひどい手紙をもらったか、ということを、競うように語り、
でもそのあとでまたすぐに、自分が由良さんから何を学んだか、由良さんという人がいかに日本の人文学に寄与し、自分がそれにかかわったか、
ということを、これまた競うように語る。
そんなふうに、この日の対談は進んでいった。
二人の比較的淡々とした語り口のせいもあるのだろうけれど、
わたしはこの対談、まるでお通夜のようだ、と思った。
「先生」がなくなって何年もたってから、やっと「先生」とのことを、いいことも悪いことも、語れるようになった。そんなふうに見えた。


そこで、わたしのイメージ写真の二枚目、ラケットを持った赤鬼のことを考えた。
わたしが「○○先生」と固有名詞でなく、ただ「先生」というとき、多くの場合、この人のことを指している。
高校3年間、わたしの高校のテニス部顧問だった人だ。
「先生とわたし」というタイトルを聞いた瞬間に、わたしが思い浮かべたのはこの人の姿だった。
わたしは卒業後も10年以上にわたり、この人に反発し、挑戦し続けてきた。
認められたいと思い、負けたくないと思い、参ったと言わせてやるのだと意地を張ってきた。
いまはもう、全然違う道を進んでいるのに、まだ勝負はついていないような、挑戦は終わっていないような気がしている。
だからいまはまだ、先生のことを上手に語ることができない。いつかはきっと、四方田さんと高山さんのように、
「先生とわたし」について、いいことも悪いことも語れるようになるのかもしれないけれど。


……というような、個人的な感傷を呼び起こされる、文学性の高い「評伝」だった。
17日の対談も、そういう意味ではとてもロマンチックでセンチメンタルな対談だったと思う。
「結局、この評伝も対談も、由良さんという圧倒的な知性の人への、屈折した愛のメッセージなんじゃないの」
対談の帰りの中央線の車中、わたしはいっしょに対談に行った同居人相手に、自分の感想をそんなふうにまとめた。
すると、それまであまり積極的に意見を言わなかった同居人が、かなり強い口調できっぱり言った。
「あの人たちの世界は、そんなに単純じゃない」


その口調の強さに、わたしは思わず黙ってしまった。
四方田犬彦の『先生とわたし』は評論であって小説ではない。
安易に自分の身に置き換えた薄っぺらな読み方は、同居人の言う「あの人たちの世界」に対する冒涜なのかもしれない。

先生とわたし

先生とわたし