加藤周一・中村眞一郎・福永武彦『1946・文学的考察』

1946・文学的考察 (講談社文芸文庫)

1946・文学的考察 (講談社文芸文庫)

読了。
古本屋で購入したのは冨山房百科文庫のもの(1977年刊)なので、上の写真とは異なる。
ページは手元の冨山房百科文庫のもの。
久しぶりに旧字旧仮名に接し、最初はちょっと苦しんだけれども、慣れればどうということはなく、
逆に独特の味わいがあるような感じがして、どっぷりとその世界に浸った。


加藤周一は1919年、あとの二人は1918年生まれ。
この本は、3人が20代後半のときに雑誌に書いた文章をまとめたものだ。
10ページほどの短い文章の最後に、K・N・F、というイニシャルが入っているけれど、
読み始めればだいたい、あ、これは加藤周一だな、中村眞一郎だな、と私でもわかるくらい、
この時点ですでに、はっきりとそれぞれの個性が出ている。


「あとがき三十年後」にあるとおり、たしかに「三十年前の若書きは、共存の構造の分析的な理論を欠」いているのかもしれない。
そういう難しいことは、わたしにはよくわからない。
けれども、そのあとがきが書かれてからさらに30年が過ぎ、1946年から60年以上経った今もなお、
彼らの文章にみなぎる力、焦りとも思えるほどの熱情、「文学」への強い思いは、まったく色あせていない。
どの文章を読んでも、「昔のこと」とは思えない。
今の自分がやっていること、考えていることに、直接影響を与えるようなインパクトがある。


なぜだろう、と考えてみた。
それで思ったのは、ものすごく当たり前のことなのだけれど、文章がうまい、ってことなんじゃないか、と。
昨日、「本の話を夢中になってする男の人に弱い」と書いたけれども、
よく考えてみると、本の話を熱っぽく語ればだれでも素敵、ってわけではもちろんなくて、
その本に対する強い思いを表現するのに、どんな構成を、どんな文体を、どんな言葉を選ぶか、というところで、
その人のことばの力というのがあらわれているわけで、
だから昨日書いたことをもう少し正確に表現するなら、
わたしは「本の話を夢中になってするような情熱を持っていて、なおかつ、それを巧みに日本語で表現できる男の人」に弱い、
ということになるか。


で、まあ、そんなことはどうでもいいことで、
わたしが言いたかったのは、この3人の書き手たちは、
20代にしてすでに、自分が書きたいこと、書くべきことについて、あふれるような情熱を持ち、
さらに、それを巧みに表現する、ことばの力を持ち合わせていた、ということだ。
そしてこのとき彼らがよりどころにしたのが、フランス文学を中心とした外国文学だったということが、
なんだか切ないような、焦りのような気持ちをよびおこす。


いいなあと思ったところのページの角を折っていたら、折り目だらけになってしまった。
なので、あえて一人一編、いちばん好きだなあと思った章をあげてみる。
福永武彦「文学の交流」
中村眞一郎「田舎からの手紙」
加藤周一「1945年のウェルギリウス


    「アェネーイス」を論じる資格はない。私はただ私自身の思い出を語らふと思ふ。
    一九三五年三月十日、燃えさかる炎の中に、私はアェネーアースの嘆きを聞いた。
      illiaci cineres et flamma extrema meorum
      イーリウムの灰よ、わが国民の最後の焔よ、
    「アェネーイス」の第二巻、トロイ落城の光景は、髣髴として宛ら眼前にあつた。
    誰も忘れたものはあるまい。
    B29に対して、東京市民は、竹槍とバケツと愚かな神話との他に、何の武器も持つてはゐなかつた。
    そして、一晩のうちに、東京の下町の全部も、竹槍、バケツも、御用学者とデマゴーグとが発明した神話も、
    要するにアジア的封建主義が産んだ軍国的装飾品の一切も、余すところなく、焼け落ち、
    今更だれに対して怒る気力もない人々は、ふとんを背負ひ、とび口を杖つき、赤子を抱きながら、病人の車を押して、
    陸続と焼けた電線の散乱する道を逃れてゆく他はなかった。
    或る者は、亀戸は丸焼けだと云ひ、或る者は、浅草は死屍累々だと云ふ。
    又或る者は、こんなことなら昨日の晩玉子を皆食べておけばよかつたと悔しさうに云ふ。
    子供を抱いたまま死んでゐる女、皮膚の色のこげ茶色になつた男、らくだのやうに焼けてまだ動いてゐる馬、……
    (68−69ページ)
 

東京大空襲をトロイ落城に重ねる加藤周一の短い文章は、次の一文で締めくくられる。


    一九四五年のウェルギリウスは、我々を導いて、希望なき地獄をとおり、ついに天国への希望を有する試練の府、煉獄の門に至つた。
    (74ページ)


ほんとうは三人全員の文章を抜書きしたいのだけれど、とりあえずこれだけ。
以前このブログに書いたように、この本はとても有名な本らしいのに私は何も知らず、
講談社文芸文庫に入っているということも、さっきアマゾンで検索して知った。
そのようなていたらくなので、この本を正確に読めているかというと、正直なところ自信はない。
ただ、自分としてはかなり高揚した気分で読み、ああ、もっともっと本を読みたい、読まなくては、と思ったのは間違いない。


さて、ここのところ文学や文学者についての本を読む機会が多く、
小説そのものを読んでいないような気がする。また、来週読書会があるので、次は後藤明生『挟み撃ち』を読むつもり。
ぼやぼやしているうちに、古典新訳文庫の新刊がまた出てしまった。
7月22日(日)に『カラマーゾフの兄弟』完結記念のイベントがあるらしく、それまでに「カラマーゾフ」をとりあえず読了しておきたい。
となると、もうそろそろ第一巻を読み始めないと、間に合わないかなあ。
うーん、大忙しだ。つくづく、ゴールデンウィークを「チャングム」でつぶしてしまったことが悔やまれる。
でも、仕方ないよね、めちゃくちゃおもしろかったんだもの。