しびれるということ

昨日はあわただしい一日だった。キーワードは、「しびれる」。


10時から新宿で読書会。課題は谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
14時〜18時 水道橋の会社で児童文学をとばし読み。
18時半から東京工業大学世界文明センターのレクチャー(柴田元幸さんと沼野充義さんの対談)を聴講。


まずは谷崎潤一郎

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)

同居人の本だなから発掘した版はかなり古くて、読書会のメンバーが持ってきたものとはページなどがずれていた。
気になったページのすみを折ろうとしたら、同居人から「ああっ!」とだめだしされたので(本を大切にする人なのです……)
メモもとらずにぶっつけ本番で読書会にのぞんだ
出席者は5名。
わたしの感想は、思っていたよりはるかにわかりやすく、おもしろい文章だったということ。
高校の教科書に載っている箇所よりも、前の方の建築の話や厠の話、後ろの方の女の肌の色の話などのほうが、
ずっとおもしろかったように思う。
読みながら、「うちのマンションの北側の部屋を、和風に模様替えしようかしら」なんて考えてしまったくらいで、
今でいえば「kunel」とか「暮らしの手帖」とかの、インテリア特集の記事を読んでるみたいな感覚だった。


読書会のいいところは、自分は何気なく読み飛ばしていた箇所を、
人から指摘されてじっくり読み直してみると、「おお〜っ」と思ったりすることがある、ということ。
たとえば、書院の障子のしろじろとしたほの明るさについて述べている箇所。


  ……私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだたく。
  何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。
  それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、
  却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつつあるからである。
  諸君はそういう座敷に入ったときに、その部屋にただようている光線が普通の光線とは違うような、
  それが特にありがたみのある重々しいもののような気持ちがしたことはないであろうか。
  あるいはまた、その部屋にいると時間の経過がわからなくなってしまい、
  知らぬ間に年月が流れて、出てきたときは白髪の老人になりはせぬかというような、
  「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。
  (30ページ)


かっこいい。特にこの「床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に跳ね返され」ちゃうところ。
こういうのを読むと、論理的であるかどうかなんてほんとにどうでもいいことで、
文章を読んで、「うちの北側の部屋、模様替えしようかな」なんて思ったり、
「かっこいい」としびれたりできれば、もうそれで十分、「なんとか力」みたいなものをつけてもらわなくても結構、なんだな。


で、東工大のレクチャー。
実は、「しびれる」ということばは、このときに柴田さんが使ったことばで、
「大学で文学を教えるというとき、知識の伝達以上に大切なのが、文学にしびれる力をつけるということだと思う。」
というようなことを、柴田さんは言っていた。
「ことばを音楽として感じられること」という言い方もしていた。
それに重ねるようにして、沼野さんはブロツキーのことばを引用して、
言語は私的なもので、国家などの制度よりも強いもので、現在から未来を志向するものである、
という話をした。わたしはこの二人は、結局、同じことを言おうとしているような気がした。
沼野さんが朗読したシンボルスカの「とてもふしぎな三つのことば」という詩と、
柴田さんが朗読したパトリック・マグラアの「オマリーとシュウォーツ」という短編が、どちらもとてもよかった。
最後にお二人から、翻訳でよいから世界文学をどんどん読もう、そして、おっ、これは、と思ったら、
やっぱりその語学を学んで、原書に挑戦してみてほしい、という呼びかけがあった。
ほんとうに、そのとおりだ。
わたしのいるところで、何ができるのだろう。
世界文学ととても近いところにいるはずなのに、とても遠いところにいるような気がする。


……という前行の危惧は、今日の朝刊で「学力テスト」の国語の問題をみたとき、現実のものに。
国語教育は、こんなところまできてしまっている。
文学の力は、「春は(  )。」の(  )に、「あけぼの」と書けるかどうかで測れると、
本気で思っている人が、どうやらこの世界には、結構いるらしい。