宇宙人への提示

11月20日21日と、2日連続で「池澤夏樹編集 世界文学全集」刊行記念イベントへ。
どちらも予想以上に充実した内容で、仕事が忙しい時期に無理をして出かけていった甲斐があった。

1日目、東大で行われたイベントのタイトルは、「世界解釈としての世界文学」。
池澤夏樹さんが、「宇宙人に、人間というものについて手っ取り早く、深く知らせるもの」として、
この全集を編んだ、というようなことを言っていた。
沼野充義さんも、「アメリカ文学ロシア文学、というような、国別のなわばりあらそいをやめて、
宇宙人の視点で文学をみてみよう」というようなことを、以前にどこかで書いたことがある、と言っていて、
なるほどこの考え方なら私(のような普通の読者)にも理解できるな、と思った。


子どものころ、なぜ本を手にとったのか、と考えてみると、
やっぱり自分をとりまく世界というのがどんなものなのか、生きていくというのはどんなことなのか知りたい、
というひたむきな気持ちから、に尽きると思う。
本を読むことで成績がよくなるとか、国語力がつくとか、将来○○になりたいからとか、
そういうのはまったくなかった。
自分は日本人だから、外国より日本のことをよりよく知らなくてはいけないとか、
自分は女だから、女性がしっかりと描けているものを読みたいとか、
そんなこともまったく考えなかったし、(幸い)、だれからもそのような強制は受けなかった。


大人になっても、本に対する基本的なスタンスはほとんど変わらない。
だから、池澤夏樹さんという一人の作家が、「世界とはこういうものです」と解釈する材料として、
24巻のセットを世の中に送りだしたと聞いたとき、わたしの中の「知りたい病」がむくむくと頭をもたげて、
ばーんと大枚をはたいて全巻予約購入したうえに、2日も仕事を早退してイベントにかけつけてしまったのだった。


このイベントで一番盛り上がった話題が、カナダ人のテッド・グーセンさんがふった、「なぜ日本文学が入っていないのか」ということ。
池澤さんは、「日本文学全集と世界文学全集を別物としてつくってきたという日本の出版界の習慣に対する、怠惰な慣れ」と、
「24巻のうち1巻か2巻を日本作家にゆずりわたすとその分どれかを落とさなくてはいけなくて、それがいやだった」と、
かなり正直な(とわたしは思った)答えをしていた。それで、だれが言い出したのか忘れたけれども、
もし、日本文学をいれるとしたらだれの何をいれるか、ということを皆がそれぞれ言い合うことになった。
池澤さん……村上春樹大江健三郎中上健次ははずせない。でも、もし1人だけ、というならば、石牟礼道子苦海浄土」を。
グーセンさん……春樹、大江、中上に加え、井伏鱒二「黒い雨」、安部公房砂の女」、桐野夏生「OUT」。
沼野さん……春樹、大江、中上に加え、やはり安部公房、そして池澤夏樹の「マシアス・ギリの失脚」。
ここまで出たところで、司会の柴田元幸さんは、「もう何も付け加えることはないなあ」と言ったので、
残念ながら柴田さんのリストは聞けなかった。


最後の質疑応答で、似たような質問が出た。
「皆さんがご自身の本棚をごらんになって、それぞれご専門の分野の作家の中から、
 2007年11月現在に読むべき『世界文学』を1冊だけ選ぶとしたら、何を選びますか」
壇上の先生方は顔を見合わせてちょっと困った様子。
それはそうだろうなあ、専門分野ってことになると、いろいろしらがみもあるだろうし。
どうするのかなあと見守っていたところ、3人3様のみごとなきりかえしで、会場も満足、納得。
グーセンさん…川上弘美さん。『センセイの鞄』。『真鶴』もいいね。居酒屋さんが好きデス。
柴田さん……Haruki MurakamiのHard-Boiled Wonderland and the End of the World かな。
沼野さん……ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』……。


このところこういうイベントではやっている「朗読」の趣向がなかなかよかった。
柴田さん朗読のカルヴィーノ『見えない都市』の一節にはしびれた。
以前、この本で読書会をやったときに、わたしが「いちばんいい」と思った、まさにその箇所だった。
柴田さんの朗読は今までにも何度か聞いたことがあるのだけれど、ほんとうにうまい。
それは、ラジオのアナウンサーのようなうまさでも、
子どもの本の読み聞かせなどで時々あるようなわさとらしいうまさでもなく、
比較的淡々と抑えた調子で読みながら、作品の中に深く入っていくような感じ。
数年前にあまんきみこさんの自作朗読を聞いたときとよく似た感覚だ。


2日目、前半は池澤夏樹さんと江國香織さん、後半は池澤さんと青山南さんの対談。
池澤さんの話の発端は、前日と同じ。
小学校4年か5年のときに出会った、創元社版「少年少女世界文学全集」が、自分の人生を決めた、というおハナシ。
前日には言わなかった「へえ」は、この全集が月に1回、夏樹少年のもとに届くように計らってくれたのは、
両親が離婚したために別々に暮らしていた実父、福永武彦だった、ということ。
大人が子どもに本を手渡すということは、前日の言い方を借りれば、「世界ってこういうカンジ(柴田元幸さん)」を示すということで、
それはやっぱりすごいことなんじゃないだろうか。
続けて江國さんが、「そういう本は、すぐに夢中になって読まなくてもいい。飾りであっても、ないよりはずっといい。
いつもそこにあって、いつか読もうって、背表紙をずっと見て育つ、そういうことも大切なんだと思う」というようなことを言っていて、
ああ、この人はほんとうに、わたしと同じような少女時代を送った人なんだ、と思った(同い年なので……わたしの父はフツーのサラリーマンだけど)。
江國さんは最後の質疑応答で、「生きていくうえで、自分にとっては『ことば』がとても大切なものなのです」と言ったのが、
こうして書いてしまうとなんだか当たり前のことのようだけれども、
そのときの言い方とか話の流れの中で、わたしは「ああ、ほんとうにそうだね、そうだね」と、
相手は人気作家さんであるにもかかわらず、今のわたしの悩みをすべて打ち明けられる大親友に対するように、
心の中で話しかけ、うなずいたのだった。


青山さんは「翻訳の仕事は、作家の味方になって、作家の側に立って、つきあっていく仕事だ」と言っていたのがおかしかった。
翻訳をしながら、情けない作者や主人公を、「おいおい、しっかりしろよ」とはげましながら、
とにかく最後までつきあって、ああ、よくここまでがんばったね、とお互いねぎらう、という感じは、うーん、よくわかるなあ。
たぶん翻訳者にはもっと理性的に、作品を客観的にみて訳していくタイプもいるとは思うのだけれど、
わたしはどうしたって「とことんおつきあい型」の翻訳者だった。そもそも読者として「とことんおつきあい型」で、
これはそう簡単には変えられそうにない。たとえギョーカイのはやりが「共感的読み」より「論理的思考力」だとしても。


ちなみに青山南訳の『オン・ザ・ロード』は、まだ読んでいない。
でも、途中ですこしだけ、青山さんが軽く音読した部分について言えば、
さすが、ものすごくうまいように思った(自信のあるところを読んだのだろうけど……)。
私好みの作品かと問われれば、たぶん違うのだろうなあと思うけれども、
この美しい装丁の全集は、江國さん流に言えば「いつもそこにある」のだから、「いつか読もう」と思っている。