「感情・情緒」をことばにして表現すること

自転車で、荻窪にある「なごみの湯 湯〜とぴあ」に行く。
最近のお気に入りは、ネットでチケットを印刷していく、
「お気軽デトックスセット」。
入館料に岩盤浴とマッサージ(40分)プラス1ドリンクがついて5000円。
朝10時の開館と同時に入り、お昼をはさんで2時ごろまでのんびりし、
近所の本屋さんや古本屋さんに寄って帰ってくる、というのんびり贅沢な週末の過ごし方だ。
鞄の中に『黄金のノート』をいれていったけど、結局開くことなく帰ってきた。
ああ、「読了」の文字が書けるのはいつの日か……。


荻窪の新刊書店で、国語教育がらみの本を立ち読み。
立ち読みしたのは著名な精神科医であり、教育関連の著書も多い、和田秀樹さんの本。
PISA調査の結果から書き出して、いまの子どもたちに必要なのは「考える力」だ、
という基本的な立場には、もちろん異論はない。
ひっかかったのは、「国文学教育の限界」というような(うろおぼえで申し訳ない)タイトルのついた章で、
ご自身の子ども時代の思い出として、
作品を読んで思ったこと・感じたことを、言いなさいとか書きなさいとか言われるのがすごく苦手で、
先生に叱られてばかりいた、というようなことが書かれていたこと。


ああ、まただ、と思った。
前にもこのブログで書いたことがあるけれども、
作家さんや学者さんが「子どものころの国語の授業」について語るとなると、
かなりの割合で、この「感情・情緒」を「ことばにして表現する」ことを「強制された」ことへの嫌悪感・不快感を
示している。そして、多くの場合、「だから、わたしは、教科書に出てくる文学作品がきらいになった」と。
そしてここから先、コースは二つにわかれる。


その1 作家さんコース
作家さんの場合は、「だから、わたしはひとりで読書にふけった。」となるケースが多い。
教科書では絶対に扱わない(扱えない)ような、毒のある、不道徳な小説を、昼となく夜となく読みふけり、
ついに作家となる。独特の感性を売りにした小説は、自信作だが売れ行きはいまひとつ。
その2 学者さんおよび一般人コース
「だから、わたしはその後、一切、文学作品は読みません。」となる。
専門の学問に関する本(学術書)や、ビジネスにすぐに役に立つ本(実用書)は読むけれども、
いわゆる「文学作品」にはほとんど関心がない。


その1のコースにすすむ人はごく少数で、ほとんどの人がその2のコースにすすむわけで、
その2の人々の無関心の結果が、その2の作家さんの「作品が売れない」という結果にむすびついている。
……などと考えていくと、この文学好きにとって絶望的な状況をつくりだしている諸悪の根源は、
「国語の授業」と「国語の教科書」だ!!ということになってしまうのだが、
さて、ほんとうのところはどうなのだろう。


先日、ある国語教育に携わる人が、「『感情・情緒』をことばにして表現することに何の意味があるのか(=無意味だ)」と言った。
この発言の裏にあるのは、今まで書いてきたような、これまでの国語の授業に対する、恨みに近い感情なのかもしれない。
わたしはそのときうまく反論できなかったし、ここでちゃかちゃかと反論を書けるような気もしないのだけれど、
すぐれた文学作品を読んでいろいろな思いを持つことや、その思いをことばにすること、
日々の生活の中でうまれたさまざまな思いをことばにすること、
というのは、私からすれば国語教育の根幹というか、基本というか、
絶対に軽くみてはいけない部分、としか思えない。
上記の発言者がどんなにエライ人でも、ここのところについては、わたしはどうしても、立ち向かっていかなくてはいけない。


……などとつい、熱くなってしまった。
それにしても、いつもとても不思議なのだが、子どもの自然な発想からくる発言や作文を、
期待しているものと違うからといって「こんなのだめ」という先生、などというのが、
この世の中にそんなに多いものだろうか。
いや、単にわたしが幸運だったのかもしれないけれど、
少なくともわたしは、国語の作文や発言をするときに、先生の顔色をうかがっていたという記憶はない。
(当然ながら、いまは常に、上司の顔色をうかがいながら、びくびくしつつ発言してま〜す。)
最近になってわたしがお会いする先生方だって、研究授業だって、
時々「う〜ん」という授業がないわけではないけれど、
多くの先生は子どもの自然な発想を大切にして、大勢の子どもの発言をじょうずに使いながら、
明らかに誤読している子どももじょうずに導いて、すべての子どもが作品の世界に深くはいっていけるよう工夫されているなあ、と思う。
思うに、「先生は子どもの個性的な発想を大切にしてくれない」というのがクリシェになってしまっているのかも。
そういえば教員時代、親から「うちの子は個性的なので、国語の読解問題はなかなか○がもらえないんです」と言われたことがある。
それはたぶん、「個性」ではなくて「誤読」なのです、おかあさん……とは、言えなかったけれど。


今日はずいぶん寒い。
敬愛する児童文学の作家さんと電話で話す。
話す前と、話した後では、わたしは別人のようになっている。
やさしく、世の中のすべてのものと仲よくできそうな気持ち。
こんな気持ちが、長続きすればいいんだけれど。
よーし、『黄金のノート』読むぞお!!