朝日と夕日のあいだ

先日、ある児童文学作家と長い時間お話をする機会に恵まれた。
この方にお目にかかるのは二度目で、以前お会いしたのは4年前の夏、
妹が癌で亡くなって2週間もたたない頃だった。
会社には通常どおりに通い、傍目には普通に生活しているように見えたかもしれないけれども、
自分としては生きているという実感のないような、生と死の世界の間をふわふわ漂っているような感じで、
ただ目の前のやるべき仕事を黙々とこなしていた。


そんなときに、この作家さんにお会いした。
対談のあとに、自作の朗読をしてくださったのだけれど、
それを聞いているうちに、悲しい物語ではないのに涙が出てきて、
自分は生の側にいるのだということ、
喜怒哀楽さまざまな感情をもった生身の人間として、
妹がいないこの世界で生きていくのだということを、実感したのだった。
そしてこの世の中は病気や死や悪意や悲しみに満ちているけれども、
同じように、生きる喜びや優しさや温かさにあふれているのだということを、
この人はわたしのために、語ってくれているような気がした。
この日を境に、日常生活に戻っていけたように記憶している。


それから4年近く経って、わたしは40代になり、少し太った。
自分の仕事や会社に対する小さな不満が積み重なって、
大爆発を起こしそうになっていた。


東京駅でタクシーを待っているとき、
わたしが「42歳になりました」と言うと、
その作家さんは、「そう、40代は、いちばんいいときよ」と言った。
わたしは、「そうでしょうか。わたしはまだ迷ってばかりだし、体力は落ちてきたし、
あまりいい感じはしないんです」と言った。
すると彼女は、いたずらっぽい表情を浮かべて、だいじな秘密を教えてくれるような口調で、
わたしにこう言ったのだった。
「あのね、30代はね、朝日に近いの。それで、50代は、夕日に近いのかなあーって思うの。
だから、40代は、朝日と、夕日と、どっちも、同じように楽しめて、いちばんいいときなのよ。」


あんまり素敵なことばだったので、だれにも言わないで自分だけの秘密にしようかと思ったのだけれど、
もしかしたらわたしと同じように、悩める40代の読者がいるかもしれないので、
特別大公開!しました。


何しろ4年ぶりだったので、わたしの顔も忘れているだろうし、不慣れな東京駅での待ち合わせは不安だろうと思って、
待ち合わせ場所の地図や時間に加え、わたしの容貌をメモした(わかりやすいように「太めです」とまで書いて!)
ファックスを事前に送っておいた。
そうしたら彼女は、そのファックスを小さく折りたたんで、サイフの中に入れて持っていて、
「ほら、貴女からいただいたファックス、お守りみたいにして持ってるのよ」と言って笑った。


年齢のわりにはかなりお元気なのだけれど、足元が少し不安らしく、
人が多いところでは「つかまらしてね」と言って、わたしの腕をとる。
ホテルのエスカレーターが、たまたま一人分の幅の狭いエスカレーターだったのだが、
彼女は両手で手すりをぽんぽんとたたきながら、
「わたしね、こういう狭いのが好きなの」とささやく。
そういう何もかもがほんとうにかわいらしくて、
この人はほんとうにこの世の人なんだろうかと思ってしまう。
ほんとうは、この人のえがくやさしくて温かい物語の世界の住人なんじゃないだろうか、と。


この日は心を洗われたようなやさしい気持ちになって帰宅。
些細なことでぶりぶり怒ったり、イライラしたりしている自分を反省。
……この反省は長続きせず、翌日にはまた同じように、ぶりぶり、イライラ
朝日と夕日の両方を満喫する40代への道のりは、なかなか険しそうだ。


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現在、『ジュリアス・シーザー』を読書中。