安西徹雄さんの回

先週の土曜日、早稲田エクステンションセンターの講義「古典の愉しみ、新訳の目論み」の講師は、
安西徹雄さんだった。


以前にもいちど、別のイベントでお話を聞いたことがある。
そのときも、「ご年齢やキャリアのわりに若々しいお話ぶりだなあ」と思ったのだけれど、
今回は、かなり、驚いた。
前半、英文和訳と翻訳のちがい、というようなお話をされて、このあたりは、翻訳学校に10年近く通った身としては、
「聞いたことのある話」ばかり(、そうでなくてはおかしい)。
紹介された安西さんの翻訳関連の著書も、「もちろん既読ですよ〜」という感じで聞いていた。


途中、「芝居」ならではの翻訳、というお話になってからが、すごかった。
とにかく、英語でも、日本語でも、読み方がすごい。
ごく短いせりふを読むだけなのに、もう、「リア王がそこにいる〜!!」という感じで、
読み終えて安西さんが顔をあげた瞬間、教室はしーんと静まり返って、
わたしは思わず拍手をしたいという衝動にかられた。
たぶん、教室にいたほかの人たちも、同じ気持ちだったと思う。
「でもここは教室で、いまは授業中で、拍手なんかしたら場違いだよな」と思って、ひかえた。


せりふとして訴える力のある翻訳をするための、数々の工夫をうかがっていて、
たしかに「ええ〜、そこまでやってだいじょうぶなのかしら」と思ったりもした。
安西さんも「異論はあるでしょう」とおっしゃっていた。
でもわたしは、安西さんのおっしゃっている「芝居の翻訳」は、
一時話題になった「超訳」などとはまったく種類の異なる、
ほんとうの意味での「正確な訳」なのだと思う。


「訴える力」を強調する一方で、「わかりやすさばかりを追求してはいけない」というお話も心に残った。
読みかえすことのできない芝居の翻訳の場合、「わかりやすさ」はもちろん大切なのだけれど、
空間も時間も、現代の日本とはまったく異なる世界で書かれた作品を読むのだから、
ひっかかりがあって当然だし、そこにこそ古典の魅力があるともいえる、と安西さんはおっしゃっていた。


このことはずっとわたしの中ではテーマになっていて、
「わかりやすい」ことと「すぐに役に立つ」ことは、もちろん大切なことのひとつなのだろうけれども、
文学や教育を考えるときには、いったんこの二つのことを脇において、
安西さんの言う「訴える力」や、「深いところで琴線に触れる(台詞)」のようなことを、
大切にしていきたいなあと思う。


この講座は、毎週土曜日の2時45分から始まる。先週もいつものように、2時42分ごろに教室にかけこんだら、
もう安西さんが教壇の前に座っていらした。
「しまった、遅刻か!」と思ったら、安西さんは、
「大学の教師をしていたときには、開始時刻前に教室に入るなんてことをしたことがなかったのだけれども、
こういう講義は社会人の皆さんが『自腹』でいらしていると思うので、少しでも無駄のないようにと思って、
早めに来ました」とおっしゃったので、感激した。