「すばらしい!」と「勉強になりました」


先日、年上の女性の友人から、
「あなたは無防備すぎる」「調子を合わせているのがミエミエである」と指摘され、
軽いショックを受けている。
仕事上で、相手の仕事ぶりが期待どおりでなかったときどうするか、というような話題だった。
自分としては、もちろん仕事なのだから、ある程度うまく調子を合わせて、
波風を立てないようにしているつもり。
でも、そういえば、と思い出したのは、教育実習と教員時代のことだ。


20代半ばに、母校(中学)に教育実習に行った。
何年か社会人を経験した後だったということもあり、
自分としてはまあ、うまくいったと思っていた。実際、指導教官の評価も、最終日にもらった子どもからの手紙も、
かなりいい感触だったと思う。
けれども、子どもからの手紙の中に1通、とても気になるものがあった。
生徒会の副会長をしている、成績もトップクラスの女生徒のものだ。
配布された用紙の真ん中に、大きく
「わざとらしい話し方が大きらい」
と書いてあった。
ううむ……と悩んだけれども、指導教官から「いろいろな子がいるのだから、いちいち気にしないほうがよい」と言われ、
その後は採用試験の勉強に突入して、その手紙のことは忘れていた。
さて、その後、晴れて中学校の教師になり、学校生活にも授業にも慣れ、
子どもの気持ちもバッチリつかんでいるぞと、ちょっといい気になっていたある日のこと。
クラスでもあまり勉強が得意でない子に、比較的やさしめの発問をして、
少しヒントなども出して、その子の発言を促していたとき、別の生徒が言った。
「先生、何わざとらしい笑顔浮かべてんの」
ぐわーん。ショックだった。念のため言っておくと、この生徒は決してわたしを嫌っていたわけではない。
むしろ、慕っていたと思う。
だから彼はきっと、勉強が得意でない子の発言を待っているわたしの表情を、しっかりと見ていたのだろう。
そしてそのときわたしは、「あらゆる子の力を信じています」的な、もっともらしい作り笑いを、浮かべていたにちがいない。


今朝、仕事上のミスについてある人に相談したら、彼はミスの原因を、
「自分が心から信じていないのに、体裁をとりつくろうとしたからじゃない」
と言った。
そうか、そのとおりなのかもしれない。
仕事をしていれば当然、本音と建前を使い分けることを要求される。
これが上手にできなければ、一人前の社会人とはいえない。
自分としてはそんなことはよ〜くわかっていて、ちゃんと使い分けているつもりだったのだけれど、
どうやらそこらあたりが、全然、だめらしい。


知り合いの編集者に、やたらと「すばらしい!」を連発する人がいる。
本についても原稿についても、「すばらしいですね!」と褒めたたえるのだけれど、
どこがどうすばらしいのか、ということについては、ほとんどふれない。
この人、ほんとうに「すばらしい」なんて、思ってないんだろうなあ、と思う。
わたしの「ミエミエ」ってのも、きっとこういう感じなのだろう。


この「すばらしい」と同じようなことばに、「勉強になりました」がある。
研究会などにいって、主催者や発表者と話さなくてはいけなくなったとき、
「勉強になりました」を連呼することがある。
これもやっぱり、どこがどう面白くて、どう勉強になったのか、うまく説明できない、
つまり、たいして感銘を受けなかったのだけれども、とりあえず何かほめなくちゃ、と思って、
空疎な御礼のことばとともに口にする。


もちろん、こんなことばかりではない。
先週、早稲田のエクステンションセンターで、フリー編集者の今野哲男さんの話をきいた。
古典新訳文庫の編集について、翻訳について、まさに「現場」ならではの、生々しい話が次々に飛び出し、
2時間弱の講義が、あっという間に終わってしまった。
最後に「質問タイム」を設けるとおっしゃっていたので、山ほどある聞きたいことに順位をつけて、
全体のバランスの中でどの質問をしようかと迷っていたら、
長々と感想をのべるオジサンがいて、時間切れになってしまった。
でも不思議とそのオジサンに対して腹も立たなくて、
今野さんと古典新訳文庫を中心にしたこの小さな集まりは、
この場の空気というか、気分のようなものを、心から信じている人、いとおしく思っている人の集団なんだなあと思った。


先週はさらにもう一人、仕事上で、生涯にそう何度も訪れないくらい「すばらしい」出会いがあった。
この人といっしょに仕事ができるなら、多少のいやなことや苦手なこともがまんできるような気がする。
お話を聞いて、もちろん「勉強になりました」が、そんなことばを口にする必要は、まったくなかった。