古典新訳文庫『ちいさな王子』

野崎歓訳『ちいさな王子』読了。

ちいさな王子 (光文社古典新訳文庫)

ちいさな王子 (光文社古典新訳文庫)


この物語はいろいろな翻訳で少なくとも3回は読んでいると思う。
子どもの頃に内藤濯訳『星の王子さま』で読み、
わりと最近、仕事上の必要があって、たしか池澤夏樹訳で読んだ。
それで、訳のことはほとんど印象に残っていないのだけれど、
今回の野崎歓訳も含め、ほとんど印象に残らない、ひっかからない、気にならない、というのはつまり、
とてもうまい翻訳だ、ということだろう。


ただ、この小説じたいは、子どもの頃からなんとなく「説教くさい話だなあ」と思っていて、
その感じは今もぬぐえない。
「大切なものは、目には見えないんだよ」なんて書かれてしまうと、
文章のうまさと不思議なフワフワ感を味わいながら読み進めていたのに、
なんとなく幻滅してしまう。


たしか初めて読んだときは、冒頭の帽子の絵のエピソードがやたらと心に残って、
それは、自分が恐ろしく絵が下手くそだからかもしれないのだけれど、
今回は物語中盤の、王子さまがいろいろな星を訪れる場面が結構いいなあと思った。
ここの部分も説教くさいといえば説教くさいのだけれど、
ちょっと普通では思いつかないような素っ頓狂なユーモアが散りばめられていて、
説教くささがだいぶ薄まっている。
じっくり読み比べたわけではないからわからないけれど、
もしかしたら、野崎歓さんの翻訳のおかげかもしれない。


野崎さんはあとがきで、この Le Petit Prince は翻訳が何種類も出ていることに触れて、
先行訳を参照するべきか迷った、という話を書いている。
結局、「自分を信じてまっすぐ進んでいくしかない」と決めて、一気に訳出したそうだ。


  一冊の本を訳すということは、どうしたってその本と自分自身の関係を語ることだし、
  自分なりの解釈を語ることだ。


と野崎さんは書いている。
後半は当たり前のことだけれど、前半はどういうことなのかな、とひっかかった。
「本と自分の関係を語る」というのは、その本をどう読んだか、どう解釈したか、ではなくて、
その本を訳している自分が、これまでどういう人生を歩み、どんなことを考えてきたか、ということが、
翻訳者自身もあまり自覚がないまま露呈されてしまう、ということなのかな、と思った。
コワイお仕事ですね。


ここのところ仕事上で大スランプに陥っている。
いや、スランプなんてしゃれたものじゃなくて、仕事がいやになっちゃってる、ってだけのこと。
こういうときは淡々と目の前の作業的な仕事をこなし、
あまり頭を使わないことが大切。
というわけでここのところ、赤ペンを手に黙々と校正に励んでいる。
既に市場に出ている本なのに、ただ素読みするだけで、3ページに1箇所くらいの割合で決定的な赤字が入る。
校正はやりがいがあるけれど、うーん、こんなことでだいじょうぶなのだろうか……。