Get the voice right.

単行本の大きな仕事が終わり、久しぶりに翻訳関係の講演会へ。
あちこちでひっぱりだこの人気翻訳家、柴田元幸さんの講演で、タイトルは「小説の翻訳」。
柴田さんの話は、これまでにも何度も聞いているのだけれど、
そのたびに、うーん、うまいなあ、と思う。


わたしはいわゆる「柴田ファン」ではない。
柴田さんの訳しているもの(オースターとか、ミルハウザーとか)に、あまり興味がないし、
サイン会などで必ず列に並んで話しかけるチャンスをうかがう、ということもない。
でも、柴田さんの書いたものを読んだり、話を聞いたりするたびに、
ああ、この人はほんとうに才人だなあ、と思うのだ。
柴田さんの講演で、がっかりさせられたことは一度もない。
いつも、そのときの会場のニーズにあった話を、聴衆のタイプに合わせた話し方で話す。


今回は、「東京言語研究所」という、言語学関係の伝統ある研究機関が主催。
参加者はみんなこころなしか賢げで、こういうところで柴田さんはどんな話をするのだろう、と興味津々だった。
日本は諸外国にくらべて翻訳家の地位が高い、とか、
最近は学問の世界でも、文化と文化の相互関係が注目されている、とか、
といった導入の話は少し眠かったけれども、
芭蕉の「古池や……」や、賢治の「雨ニモマケズ……」の英訳を紹介しながら具体的な話になると、
柴田さん本領発揮。
芭蕉や賢治の英訳の話なんて、いろいろなバージョンで読んだり聞いたりしているんだけど、
さすが柴田元幸、深いんだなあ。
このとき紹介された賢治の「雨ニモ……」のロジャー・パルバース訳を、ちょっとだけ引用。


   Strong in the rain
   Strong in the wind


急いでメモしたので、最後にコンマとかあったかもしれないけど、とりあえず。
柴田さんはほかにもいくつか紹介したのだけれど、柴田さんの言うとおり、わたしもこの訳がいちばんいいと思う。
このほか、クノーの『文体練習』や、ご自身の翻訳書の一節などを紹介しながら、
小説(というより、文学作品)の翻訳のポイントを説明するわけなんだけど、やっぱり、すごいんだよね〜。


今日のブログのタイトルは、これまでにも何度か、柴田さんが講演会で話していることばで、
作家に「訳者である自分に何を望むか」と質問すると、複数の作家からこの答えが返ってきたという。
Get the voice right.
まあ、あたりまえといえばあたりまえ。文学作品の翻訳の基本。
直訳か意訳かとか、内容か響きかとか、時々そういう議論を聞くけど、そんなの程度問題にすぎなくて、
「この場合はここは絶対いかさなくちゃ、ああ、でもそうすると、ここをあきらめなくちゃいけないかな、
あ、でもこうすれば、両方なんとかいかせるかな……」
みたいな作業を、仕事として翻訳をやったことがある人は皆、多かれ少なかれ経験しているはずだ。


おかしかったのは、会場からの質問で、
「柴田さんは、異文化を伝える直訳と、自然な文章の意訳との使い分けを、どんなふうに考えていますか」
というのが出たとき。
わたしは正直なところ、「ああ、またこの質問か」と思った。でも、才人柴田元幸はどんなふうに答えるのかな、と興味もあった。
柴田さんはどんな質問でもにこやかに的確に答え、
「こんなので答えになりましたかね、すみません。ありがとうございます。」とかなんとか、お礼まで言っちゃう人なのだ。
件の質問も、うなずきながら聞いてから、
「そうですね、うーん、ひとことで言いますと……」と言い始めたからびっくり。
「えー、ひとことで言えるの?」とわたしが隣に座っていた同居人にささやいた。で、
同居人が、「……ケース・バイ・ケース。」ときっぱり言ったのと、
柴田さんが、「場合によります。」と言ったのが、まったく同時だった。なあんだ。


ということからもわかるように、
柴田さんの話というのはいつも、何か特別な理論があるとか、御利益があるとかいうわけではなくて、
個別のエピソード、具体例と、それについての説明が、ものすごく巧みというか、人をそらさないというか、
なるほど、と思わせる説得力があるのだ。
柴田さんの話を聞くと、翻訳っておもしろそうだな、と多くの人が思うだろう。やってみたいな、と思う人も増えるだろう。
今やすっかり翻訳の仕事から遠く離れてしまったわたしだって、
「ああ、あんなに一生懸命やっていたのに……」と、少しだけ後悔してしまった。
そうなのだ。柴田さんみたいにはとてもできなかったけれど、
でも、やろうとしたこと、っていうか、めざしたことは同じだった。
Get the voice right. と肝に銘じて、
原文と日本文の間、作者と読者の間で、ああでもないこうでもないと頭を悩ます日々だった……


最後に主催者の先生から出た質問は、これまたよくある質問で、
「柴田さんが日常的に使っている辞書は何ですか」というもの。
で、わたしはこの質問に対する柴田さんの答えを、ずっと前から知っている。
英和辞典は、研究社の「リーダーズ英和辞典」と「リーダーズ・プラス英和辞典」。
国語辞典は、三省堂の「大辞林」と「新明解」。
そしてわたしは、柴田さんの真似をしたわけではないのだが、
翻訳をやっていたころ、まったく同じ組み合わせを、「最初にひく辞書」として愛用していた。
あらためて自分の本棚をながめてみると、辞書・事典の類が、ずらりと並んでいる。
翻訳学校時代、宮脇孝雄先生が「辞書は一回引いたら元がとれたと思いなさい」と言って、
どんなに貧乏でも辞書代はけちるな、という方針だったので、結構じゃんじゃん買っていたのだ。


というわけで、ここのところちょっと翻訳への懐古気分が上昇中。
あさっては野崎歓さんのトークショー
野崎さんの場合は、「サイン会などで必ず列に並んで話しかけるチャンスをうかがう」ので、
正真正銘の「野崎ファン」です。