ちょっとうれしかったこと

今日も井の頭のアパートでお仕事。昨年から少しずつ進めていた翻訳仕事をなんとか仕上げて、恐る恐る、「恩師」というべき相手に送信。ほどなく、「はい、こんな感じで問題なし」という返事がきたー! タイトルは「ちょっとうれしかったこと」だけど、ほんとうはめちゃくちゃうれしかった。(あとでゲラになってから真っ赤に直されるかもしれないけど。)

 

フリーになったら土日に休む必要はないんだよなあ、ということで、とりあえず毎週水曜日をオフにしようと考えている。同居人もいっしょに、と話していたんだけど、明日はいきなり前職の職場へ「出社」するのだそうだ。ひとりで近くの温浴施設にでもいって、ゴロゴロしながら本を読もうかと思っている。土日よりだいぶ安いからね。ちょっとした贅沢。

 

全然痩せないけど年末から週5ペースでジムに行っている。トレッドミルで歩いている間、退屈なのでNetflixで映画を観てるんだけど、これがなかなか快適。というか、面白くてやめられないので、自然に運動時間が延びる、という予想外の事態に。これでなんとか「毎日運動」が定着してくれればいいんだけど。

 

というわけで、今日の運動は、外ウォーキング30分、ジム筋トレ30分、トレッドミル40分。

明日は休みだー。

 

OB会記念誌

今日もゆるゆるとお仕事。井の頭のアパートはほんとうに寒い。狭い。古い。でも、窓からは小さく空が見えて、時々遊んでいる子供の声がする以外は静かで、なかなか居心地がよいのだ。翻訳のお仕事がひととおり終わったので、明日は見直し。

 

ついうっかり流れで、OB会の記念誌の編集の手伝いを引き受けてしまった。ほんとうはもっと早く刊行できるはずだったのだけれど、コロナもあったし、私を含む編集スタッフ(当然全員ボランティア)が多忙だったこともあって、今、初校ゲラを読んでいる。こういう冊子なので、原則として直さない、というつもりで進めているのだけれど、やっぱりいろいろ、気になってしまうのだ。それにくわえて、このOB会は私にとってかけがえのない場所で、校正をするために読んでいたはずなのに、ぐっときてしまって冷静に読むことができない。高校3年間はいうまでもないけれど、卒業後、19歳から27歳までの9年間のかかわりがとても重く、切なく、あのときどうしてあんなことになったのだろうと思い出し、考え込んでしまう。もういい加減にこの事件からは解放されたいのだけれど、今でも時折思い出してねっとりとからみつくように私を苦しめる。

 

さ、元気を出して、少し読書をしてから寝ることにしよう。読書中の本は、小谷真理『性差事変』(すごく面白い!)、今日の運動は、外ウォーキング60分、ジム筋トレ30分、トレッドミル30分。トレッドミル走行中にNetflixで視聴中の映画は、『エノーラ・ホームズの事件簿』。

これまでのお仕事(勤め人編)

今日は仕事始め。同居人も仕事場デビュー、ということで、二人で井の頭のアパートに出かけた。古い木造アパートはとにかく寒くて、とくに足元がしんしんと冷える。お昼に外出した際にホッカイロを買ってきて足裏にペタリ。かなり改善された。寒いということをのぞけば、机とヨギボーしかないこの部屋は、仕事に集中できるという意味でベストな環境。久しぶりの翻訳仕事、まあまあの進み具合。

 

気分的に余裕があるので、これまでのお仕事人生を振り返ってみようと思う。大学時代のアルバイトやフリーランスの頃のちょっと変わったお仕事はまたの機会にゆずることにして、まずはフルタイムの勤め人としてのお仕事の変遷を。

 

大学を卒業したのは昭和の終わりが近づきつつある1986年。バブルの真っ只中だった。大手商社に縁故入社して、いわゆるお茶汲みOLを2年。所属はお菓子の材料の輸入を扱う部門で、女性社員の仕事は基本的に男性社員のアシスタント。ただ、「輸入受渡業務」という、船積書類の準備や保険料の支払い、倉庫への注文などの一連の事務作業は、女性社員に委ねられていて、自分で判断する機会はほとんどなかったものの、どうしたらミスなく効率的に仕事を進められるかを考える余地は多少はあったかなと思う。そしてこの時覚えたB/Lの裏書きだの、CIF契約だのといった言葉を、数十年後の出版社の仕事で聞くことになったのは、驚くべきめぐりあわせだった。

 

アシスタントでついた男性社員は有名大学の応援部出身、若く独身だったこともあって、仕事終わりによく飲みに連れていってくれた。銀座のバーや東京のステーションホテルなど、今思うとずいぶん分不相応な店に行った。もちろん一度もお財布を開けたことはない。いつもよく尽くしてくれているから、ということで、全部男性社員の奢り。そういう時代だった。

 

今思い出すとちょっと恥ずかしいのだけれど、当時、自分は仕事ができる方だと思っていて、男性社員のアシスタントという身分が少し不満だった。手書きで記入する分厚い台帳があって、女性の先輩方はきれいにミスなく書いているのに、わたしはしょっちゅう書き間違えて、訂正印を使って修正し、また間違えて書き直し、という繰り返しで、「台帳がきたない」と注意されたほどだった。それでも当時は若さゆえの傲慢で、単純な事務作業が苦手なだけだ、と思っていた。入社2年目には早くも寿退社する同期が続々と現れ(そういう時代だった)、会社辞めたいモードは最高潮に達し、イギリスに短期留学をするという理由で会社を辞めた。

 

3ヶ月の短期留学を終えて、一応、立派な英語の資格も得て帰国。せっかくだから英語力のいかせる仕事に就きたい、と思って毎日新聞の求人広告をながめ、まもなく出会ったのが、英語教育雑誌の編集アシスタントの仕事だった。またしてもアシスタントではあるものの、この教育雑誌の編集部は編集長とアシスタントの2人だけで成り立っていたので、入社してすぐにページをもたせてもらったり、編集後記を書かせてもらったりして(一般の刊行物に自分の文章が載ったのはこれが初めてだった)、少しだけ編集者気分を味わうことができた。若くないけど独身だった当時の編集長は、落語をきいたことがない、という私を寄席に連れていってくれたり、雰囲気のある居酒屋でご馳走してくれたりした。当時その会社には雑誌の編集部が4つあって、同世代の男性社員や女性アシスタントが遅くまで仕事をしていたから、夜遅い時間から皆で飲みに行くようになった。自宅通勤の熱血運動少女だった私は、このときはじめて、本や映画や音楽の話をだらだらしながら朝まで飲む、というような生活があるのだということを知る。編集の仕事を本格的にやってみたい、アシスタントではなく正社員の編集者になりたい、と思ったものの、当時の(今も、かも)その会社はアルバイトから社員に登用する可能性はない、と断言していたうえに、3歳年上の編集者の膨大な読書量に圧倒されてこんなにすごい人じゃないと編集者にはなれないんだと誤解?してしまって、編集者への道はいったんあきらめることになる。25歳だった。

 

その後、紆余曲折を経て、勤め人としての3つ目の仕事に就いた。公務員。中学校の先生。いろんな偶然や誤解や思い込みが重なって、中学校の国語教師になりたいと思いつめ、通信教育で免許をとり、採用試験の勉強をし、合格通知を手にした。27歳、大船駅からほど近い木造アパートで一人暮らし、小さな車を買って、葉山の高台にある中学校に車通勤。1年C組の副担任、バドミントン部顧問、1年生3クラスの国語の授業を全部担当した。当時はどこの教科書かなんてまるで関心がなかったけど、あとで教材を思い出してみると、やっぱり光村だったみたいだ。授業の準備をするのも、授業をするのも、テストを作るのでさえ、楽しくて、国語の先生になってよかったなあ、と思いながら、張り切って1年目が過ぎた。

 

ただ一つ、問題があった。今思うと滑稽ですらあるのだけれど、当時私はどうしてもソフトテニス部の顧問になりたくて、バドミントン部の顧問がいやでいやでしょうがなかった。19歳から27歳まで、ほぼ切れ目なく母校のソフトテニス部のコーチをしていたから、ソフトテニス部の顧問なら、ほかの人に負けない、いい顧問になれる、と無邪気に思っていた。学校教育というのはそんなものじゃない。今はわかるんだけど、当時はバドミントン部顧問の仕事や、合唱コンクールの指導、清掃活動や給食活動など、自分自身が魅力を感じない教育活動に割かなくてはいけない時間が長すぎて、だんだん気持ちが追い込まれていった。あんなに楽しかった授業準備や授業もつらくなってきて、またしても退職を考えはじめる。最初の商社が2年、国語教師も2年。わたしは一つの仕事を2年以上続けることができないのではないか。30歳を目前にしてようやく、さすがにこれは自分の性格に問題があるのであって、仕事の側の問題ではない、ということに気づく。

 

それからしばらく、翻訳の勉強&仕事をしながら複数のアルバイトをこなす日々が続いた。一人暮らしのアパート住まいで、貯金もなく、一番生活が苦しかった時期。32歳のとき、当時住んでいた家から自転車で行ける距離のところにある編集プロダクションが、国語の教材の編集アルバイト募集の求人広告を出していた。30歳以下、経験者優遇。普通なら年齢オーバーで諦めるところなのだけれど、ダメ元で電話をして、「年齢は32歳ですが、若く見えます! 自転車通勤なので交通費ゼロです!」と自己主張してなんとか採用してもらった。この編集プロダクションで5年間、アルバイトとは名ばかりの、かなりがっつりと編集の仕事に従事した。小学校の準拠教材や、中学生向けの塾教材、高校教科書の指導資料など、ずいぶんいろいろな種類の書籍をつくった。短期間で、大量の編集作業をこなすことが求められる職場で、期待にこたえようとがむしゃらに働いた。

 

定収入を得て、生活の不安は解消したけれど、こちらの仕事が忙しすぎて翻訳の仕事をする時間がない。だんだん翻訳の仕事の割合が減っていって、このまま教材編集のアルバイトを続けていっていいのか、と思い始めたとき、翻訳書の編集の仕事を紹介してくれる人がいて、それなら、と思い切って編集プロダクションを辞めたのが、37歳のとき。気づけば2年ジンクスを大幅に超えて、5年も勤めることができた。大進歩。そしてこのときの編集プロダクションで教えてもらったことは今もいきているし、このとき出会った人々との関係は今もずっと続いている。

 

翻訳書編集の仕事の紹介の話がさまざまな事情で頓挫し、またしてもフリーターに。翻訳の仕事だけで食べていくのは難しいし、何か適当なアルバイトを探さなくては、と焦っていたとき、前職の編集プロダクションの取引先の出版社の人から、「ちょうど国語の教科書編集者を募集しているから面接を受けてみたら」と声をかけてもらった。アルバイトだと思っていたら、正社員だという。この頃には、編集の仕事も翻訳の仕事も、どちらも片手間でできるものではない、ということを肌身に染みて感じていたから、この会社に入社できたら、翻訳の仕事はきっぱりやめよう、と決めた。合格の通知をもらい、最後の翻訳作品を仕上げてこの出版社に入ったのが、2002年の6月。38歳だった。

 

入社して最初の年は、高校国語の指導書の編集。2年目〜3年目、高校の国語教科書の編集。4年目〜6年目、中学校国語の教科書編集、小学校国語の教科書編集。7年目〜9年目、高校国語教科書の編集、10年目〜11年目、高校国語の指導書編集、12年目〜18年目、一般書(翻訳書、図鑑、事典、アンソロジー、単行本)編集、19年目、高校国語学参編集。一つの仕事を2年しか続けられなかった私が、19年も同じ会社に勤め続けることができた。留学後に勤めた出版社や、編集プロダクションで働いていた時期を足すと、編集の仕事をしていた期間は25年。勤め人人生の大半を占めているということになる。自分で企画し、著者や翻訳者を探し、企画会議を突破して刊行までこぎつけ、宣伝方法を考え工夫して、世に送り出す。編集の仕事のフルコースを何度も繰り返し、その醍醐味を満喫してきたという実感はある。

 

さて、やっと現在の地点まで来た。挫折や失敗も含め、これまでのお仕事のあれこれをすべて背負って、これからフリーランスになるのだ。定年まではまだ少しあるとはいえ、50代後半での独立開業、そう簡単ではないだろうと覚悟はしている。でも、個人的には32歳で編集プロダクションに応募したときと似たような気分だ。(若く見えます!と主張してもしょうがないけどね)

 

今日の運動は、外ウォーキング30分、ジム筋トレ30分、トレッドミル30分。運動がんばっているわりには体重は減らず。お昼のカレーと夜のデザート(ケーキ)が重い。明日も仕事だー。 

 

 

今日から

昨年は久しぶりに波乱の1年だった。一昨年の9月に学参の部門に異動になって、このまま定年まで学参を作り続ける気満々だったし、昨年の7月のあの日までは、自分が早期退職をするなんて、全く考えていなかった。

 

でも、結果的に昨年10月いっぱいで会社を辞めて、2ヶ月、失業手当をもらいながら準備をして、今日から、正式にフリーランスとして仕事を始める。開業日を1月1日にしたのはとくに意味はなくて、実際は少しずつ仕事を始めていたのだし、今日から何かが変わるというわけでもないんだけど、20年近くぶりにフリーに戻るわけだから、何かけじめというか、スタートの号砲みたいなものがほしいなあと思って、サボり気味だった(というより、ほとんど閉鎖状態だった)このブログを再開することにした。

 

目標は、短くていいし、くだらない内容でいいから、毎日書く。小学校5年生から大学を卒業するまで、毎日とは言わないまでも継続的に日記を書いていたのだから、その生活に戻るのだと思えば、それほどハードルは高くないはず。その日読んだ本のタイトルを書いておくだけでも、自分にとって貴重な記録になるので、今度こそ、このタイミングで、ブログを再開したい。今日から、毎日書く。(あっ、いま、2日になってしまった。夜が明けるまでは1日、ということで、今後も。)

 

それからもう一つ、今日から毎日運動する。最低30分のウォーキングまたはランニング。高校時代は365日運動していた(テスト前などで部活が休みになっても、修学旅行の途中でさえ、ランニングや素振りをしていたからね)。自分が一番体力があって、一番よく運動していた頃(そして一番スタイルがよかった頃!)に、生活を少しでも近づけられたらいいかなあと思って、午後の3時頃から運動する、というのを年末からはじめてみたのだけれど、これが案外いい感じ。もちろん、高校時代のように2時間半も運動するのは不可能なので、とりあえず最低30分。運動できる日にやる、ではなくて、運動するのがデフォ。部活と同じで、具合が悪い時以外は、原則休まない。

 

というような、目標というか意気込みを書くたびに、同居人に冷笑される。ほんとうに悔しいんだけど、彼は非常にストイックな性格で、もう何年も、朝のジョギングをほぼ毎日(雨の日のみ休み)続けているので、せせら笑われても、皮肉を言われても、言い返せないのだ。

 

というわけで、今日の日記は決意表明とメモのみ。

今読んでいる本は、小谷真理『性差事変』、

今日届いた本は、ダイアン・セッターフィールド/高橋尚子訳『テムズ川の娘』、

今日の運動は、外ウォーキング30分、筋トレサーキット30分、トレッドミル20分。

 

さっきたまたまNetflixで「ノッティングヒルの恋人」を観出したら、前に一度観たはずなのに止まらなくなっちゃって、これ書いたあと続き観る! 今日は1月1日なので、一応、仕事はお休みにして、明日から2022年の、そしてフリーランスとしての「仕事始め」なのだー!

 

 

 

 

少しずつ見えてきたこと

無職になって2週間が過ぎた。退職したらゆっくり本を読めるかな、と思っていたけど、全然無理だった。毎日やることがあって、それなりに迷ったり、小さく失敗したり、小さく嬉しいことがあったり、と、個人的には在職時とあまり変わらず、忙しく、刺激的な毎日を送っている。

 

この2週間のあいだに、役所関係の手続きをしたり、数十年ぶりにハローワークに行ったり、と退職にまつわるさまざまな事務仕事に追われた。思っていたよりずっと大変だということと、なんだかんだいっても出版社というのは人権や差別に対して敏感で配慮が行き届いていて、そういう面ではとても守られた、恵まれた環境にいたんだなあ、ということを感じている。(急に「奥様」と呼ばれたり、「ご主人様はお勤めですか」と聞かれたりするようになった、という程度のことなんだけど、結構げんなりするのだ)

 

でもまあ、そのようなことがあるのはもちろん世間一般というか、役所関係や銀行、不動産屋などの担当者だけで、退職のお祝いをしましょう、とか、フリーになったのなら一度お会いしませんか、とか、言ってくれた人たちは、もちろん「奥様」としての私には関心がなく、退職後は何をするつもりなのか、どれくらい、どんな感じの仕事をするつもりなのか、をたずねてくれる。ありがたいことだ。

 

そうやっていろいろな人と話をしていく中で、少しずつ見えてきたのは、私はやっぱり編集の仕事が好きなんだな、ということと、できれば文学や翻訳にかかわる仕事をしていきたいということ。定年まで4年を残して早期退職してしまったので、ある程度は稼がないといけないのだけれど、会社勤めの年収と同程度を稼がなくてはいけない、というほど追い詰められてはいないので、いきなりはむりでも、少しずつ、文学や翻訳の方に近づいていけたらいいな、と思っている。

 

そんな中、今日はたまたま大学の文学研究者グループのオンライン読書会に参加する機会があった。課題図書はケストナー飛ぶ教室』。児童文学だし、既読だし、ということで、わりと気楽に参加したのだけれど、3時間、みっちりと内容の濃いお話で、とても楽しかった。何より全員が文学研究者なのだけれど難しい言葉を使わず、本文に即して具体的に語っているので、素人でも十分議論についていけた。考えてみると、同居人以外の人と文学について話したり、文学についての議論や講演を聞いたりすることから、ずいぶん長いこと離れていたような気がする。教科書編集時代の教材化会議や素材選定会議、『世界文学アンソロジー』の編集会議は、大変だったけどほんとうに楽しかった。退職したのだから、もう自分が好きなことをやればいいんじゃないか、と思って、これからはどんどん読書会や勉強会にも参加してみようと思う。お仕事につながるかどうかとかはあまり考えず、面白そうなことにはどんどん首をつっこんで、多少場違いだったりして恥ずかしい思いをするかもしれないけど、それはそれで、ごめんなさい、とあやまって引っ込めばいいんじゃない? と思うくらいの図々しさは身についた。失うものは何もないのだから。

 

その一方で、元の職場の後輩からどーんと仕事を頼まれて、ありがたいんだけどすごい分量で、むむむ、となっている。年内いっぱいで同居人も定年退職なので、在宅ワークに集中できるように、家から歩いて15分くらいのところに二人で部屋を借りた。本と仕事道具以外は何もおかず、読書と仕事以外は何もしない部屋にしようという計画なので、テレビもガスコンロもない。作業机と防寒を兼ねたこたつだけ、通販で安いのを買って、さらに一つだけ、贅沢な買い物をした。「ヨギボー」である。

 

定年まであと4年、予定外に退職をしてしまった私と異なり、同居人は堂々たる「定年退職」。働かなくても誰からも後ろ指を指されることもない。なので、彼はどうやら、ガツガツ仕事をしている私の横で、ゆったりと「ヨギボー」に沈み込み、好きな本を読んだり、足でツンツンと蹴ってフラットになった「ヨギボー」でお昼寝したり、という夢のような生活を思い描いているらしい。(でもまあ、そうはさせない、と思っているのは、私だけではないようだ。)「本」と「こたつ」と「ヨギボー」。明日から新しい生活が始まる。

 

 

翻訳の世界1991年5月号

同居人が「高山先生のアンケートの回答がすばらしいんだ」と言って持ち帰った「翻訳の世界」1991年5月号。へー、懐かしいなーとページを繰ってみたら、これがいろいろな意味でなかなか面白い。

 

まず普通に雑誌として、とても工夫されていて面白い。たまたま「大学英語テキスト使い方マニュアル」という特集だったこともあるかもしれないけれど、「翻訳」のもつ実用性と文化的意義と時代との関係性がほどよくミックスされている。内容は難解ではないけれど、かなりがっつり書かれていて、一つ一つの記事は長め。同居人の言っていた「高山先生のアンケートの回答」は、短い中にものすごい情報量と情熱がつまっていて、我々出版社の血と汗と涙の結晶を、玉石混淆の山から選び出して愛着をもって使っている様子が伝わってきて、感動的ですらある。その一方で、毎年時期になると段ボールいっぱいになるテキスト見本の山について、ほとんどが使い物にならない、値段が高すぎる、という苦情・不満も複数の先生が書いていらして、ああ、30年前からずっとこうだったのだな、と悲しい気持ちにもなる。

 

ともあれ、特集以外の書評や連載、翻訳学習者向けの情報ページやコンテスト、ラジオの翻訳講座と至れり尽せりの内容。翻訳に興味のある人は、この雑誌を定期購読して熟読していればとりあえず安心、と言えるくらいの内容の充実度だった。(1991年というと私が翻訳学校に通い始める1年前、中学校の教師になった年だ。翻訳修行時代はほんとうにお金がなかったけど、この雑誌だけは定期購読していたことを思い出した。)

 

そして古いバックナンバーならではの、もう一つの面白さは、本文や広告に入っている人物写真。最近亡くなった東進ハイスクール金ピカ先生の笑顔の写真の隣のページには、「素顔の翻訳家」広大な世界へアクセスする、若き沼野充義先生の写真が! 肘をついて少し首を傾げ、メガネの向こうからカメラに向かって知的な視線を投げかける沼野先生。でも記事を読むと、言っている内容は、つい数年前に先生からうかがったこととほとんど変わっていなくて(「まあ、人があまりやっていないことをするのが好きな性格なんですね」って、間違いなく同じセリフを聞いたぞー!)うわー、ぶれてない、と妙なことに感動したり。「新進翻訳家登場」の黒原敏行さんも、若い!「週3日予備校の講師をしながら、あとの時間を翻訳にあてています」とか語っている。「当面の世俗的な目標は、早く翻訳業だけで一本立ちすることあたりでしょうか」だって。あの黒原さんにも、そういう修行時代があったのねー、と励まされたり。

 

そのほか目次に並んだお名前をながめるにつけ、その錚々たる顔ぶれに、「翻訳の世界」という雑誌の実力を思ったり、すごい人は昔からすごかったんだなー、と思ったり。そして密かな楽しみ方の最たるものが、「英日翻訳懸賞」の成績優秀者リスト。優秀賞で賞金2万円をゲットしている方は、今は翻訳家として活躍されている方。2次予選通過者の中にも、現在翻訳家として大活躍されている方の名前がちらほら。(33歳・塾講師・東松山市)の方とか。1次予選通過者しかもBランクの中にひっそりと、新潮クレストなどでも翻訳を出している有名翻訳家のお名前を発見! 

 

なんてはしゃいでいるうちに、夜も更けてしまった。うまく言えないけど、この「翻訳の世界」を読むことは、単なるノスタルジーを越えた何かがあるような気がする。少なくともこの雑誌が発している翻訳界の熱気と志みたいなものは、しっかり伝わってきたし、自分なりに受け止めた。57歳からできることはほんとうに限られていると思うけど、何かできるかもしれない。そのヒントになるかもしれない。などという野望はとりあえず脇において、明日の膨大な作業の計画をたてながら眠ることにしよう。

退職することになった

なんとびっくりだけど、10月末日をもって、19年の会社員生活にピリオドを打つことになった。会社と喧嘩をしたわけでも、クビになったわけでもない。円満退社である。

 

なぜやめることにしたのか、というような話は、ここでは書かないことにする。それよりこれからどうするのか、何をやるのか、というより、自分はこれからどうしたいのか、何をしたいのか、混沌とした自分の頭の中をまとめるために、久しぶりにブログを復活しようと思う。

 

とはいえ、ただでさえ前代未聞の忙しさだったはずのところへ退職のゴタゴタが加わり、土日も平日夜も仕事がぎっしり詰まっている。退職までに有給休暇を消化して、、、なんていうのは夢のまた夢。ほんとうにあと1ヶ月でぐちゃぐちゃの机も片付けて、お世話になった人々にきちんとご挨拶をして、立つ鳥跡を濁さず、といくのかどうか、不安は募る。

 

編集の仕事は、たぶん向いてたんだろうなあ、と思う。お茶汲みOLも中学校教師もそれぞれ2年しか続かなかったのに、編集プロダクション勤務時代も含めるとトータルで25年以上、編集の仕事は続けられたということだから。この間何度か、辞めてやるう! とか、もう、無理! とかなったりしたけど、振り返ってみれば楽しいことのほうが圧倒的に多かった。企画をたてるのも、ゲラを読むのも、著者とのやりとりも、デザイナーさんや組版さんとのやりとりも、どれも楽しかった。膨大な事務作業やお金の計算や営業活動はちょっとつらかったけど、人間関係にもおおむね恵まれた。

 

はてさて、これから、どうしようか。

 

ほんとうに、何も考えていないのだ。11月以降の予定表は真っ白。何も決まってない。一つ思っているのは、この「真っ白」の状態を楽しんでみようかな、ということ。なにしろ今の会社に入社してからというもの、毎日予定をびっしり組んで、締め切り、校了、提出、に追われて走り続けてきたものだから、11月に入り、無職のまま57回目の誕生日を迎える、というのもなかなかいいんじゃないか、と思っている。

 

幸い、読書の趣味は、お金のない無職の味方。膨大な積読本を少しずつ読みながら、運動不足にならないように、自転車で西荻三鷹の古本屋に行ったり、吉祥寺や高井戸の新刊書店に行ったりする、という生活を、とりあえず数ヶ月、送ってみたらどうだろう。月に1回、ハローワークに行って、これまで大事に積み立ててきた雇用保険の恩恵をこうむり、そうこうするうちに同居人が定年退職をして、二人揃って家でゴロゴロ、するほど広い家ではないので、さあその時こそこれからどうするか、本気で考えればいいんじゃないかな。