2020年という年

(2020年の年末に書いたブログが「下書き」のところに残っていた。退職が決まったこのタイミングで読みかえすと感無量だ。なぜ公開しなかったのかな、最後の一文が泣けるな、と思いつつ、せっかくなので公開することにした。2021年の秋。)

 

わたしは11月27日生まれなので、だいたい自分の誕生日頃から1年を振り返り、身辺整理をしたり、翌年への準備をはじめたりする。今年は世界中の多くの人と同じように、私にとっても特別な1年だった。2月末の楽しみにしていた東京ドームライブが当日中止の衝撃からはじまり、予定していた二度の英国旅行もキャンセルに。政府の施策や会社のルール変更にともなって、完全に家にひきこもったり、週に何度か出勤したり、もうだいじょうぶかと友人に会ったりジムに行ったり、やっぱりだめかと約束をキャンセルしたりした。

 

そして世界的な状況とは関係なく、仕事上で大きな変化があった。定年まであと数年というところへ、これまで所属したことのない部署への人事異動だ。その衝撃的な人事異動の予定を知らされた前日、担当していた翻訳書をめぐってかつてないショックな事件があった。まだわたしの心の傷は生々しいし、何より周囲の人に無用な迷惑をかけたくないので詳しくは書けないのだけれど、最初の1週間ほどは、毎日泣き暮らしていた。自分は誠実に丁寧に仕事をしてきたつもりだったけれど、自分の見識のなさが事態を引き起こしたという自覚はあったので、ほどなく事件が収束し、関係者が少なくとも表向きは元気になったのを見て、心から安堵し、全面的にわたしを擁護してくれた部長をはじめ励まし見守ってくれた周囲の人々にひたすら感謝した、というのが今年の夏の出来事だ。

 

その事件のごたごたをひきずったまま、人事異動が発令となり、それまで情熱を傾けてきた翻訳書業界とお別れすることになった。前述したように、事件が起きたときには人事異動は決まっていたので、全く無関係ではあるのだけれど、自分としてはこれで諦めがついたというか、6年半のあいだ、自由にのびのびと、作りたい本を作ることができたのだから、もう、これで十分じゃないか、と思った。事件になった本も、エージェントさんから紹介されて、なんとか自分の手で世に出したいと思い、何度も企画書を練り直し、会議では大熱弁をふるって、会議を通過させた本だった。翻訳者も校正者も組版者も、皆が心をひとつにして作り上げた本だった。

 

異動後に刊行した別の翻訳書は幸い売れ行き好調で、発売2ヶ月ほどで増刷が決まった。来年早々にはもう1冊翻訳書が出るし、5月には書き下ろしの単行本が出る。以前の職場関係の仕事はそれで終わりで、来年からはいよいよ本格的に新しい職場での仕事がはじまる。もちろん、この4ヶ月、ぼんやりしていたわけじゃない。でも、自社の刊行物の状況を把握し、業界の同行を調査・分析して、具体的に動き出すためには、ほんとうは半年くらいは必要だろうと思う。夢中で新しい職場の仕事に邁進していたから、翻訳書の仕事のことを思い出すこともあまりなかった。年末になって急に、ああ、この一年で、いろんなことがあったなあ、と振り返っている、といったところ。

 

全然関係ないんだけど、さっき高校時代の部活のOB会LINEで、高校の練習に参加しているOBOGの様子が流れてきた。20代の数年間、わたしの人生の最優先事項だった場所。当時いっしょにコーチをやっていた先輩が、今日の練習に参加していたらしい。当時の私たちは、今思えば指導者になるにはあまりに未熟だったし、あらゆる面でいきあたりばったりで、手探りで、情熱と体力だけで行動していたなあと思う。

 

まあそういう意味ではあまり進歩していないような気もする。さすがに30年も経てば、情熱と体力の総量はだいぶ縮小しているようだけれど、そこはなんとか経験でカバーして、2021年の秋には最初の果実がしっかりと実を結ぶようにがんばろう。

 

読了本3冊

またしても更新が滞ってしまった。自分の記録用に、読了本のタイトルをとりあえずあげておく。

 

出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記
 

 

 

 

 

JR上野駅公園口 (河出文庫)

JR上野駅公園口 (河出文庫)

 

 すごい統一感のなさだけど、どれも面白く読んだ。感想をいろいろ書きたいのだけれどちょっと元気が出ない。そういうときもあるよね。

翻訳家時代のことなど

元翻訳家の方が書いた本『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』が話題だ。信頼する翻訳家の方がこの本を読んで、とても褒めていたので、読んでみようかなと思ったりもするけど、ここに書かれたひどい編集者&出版社の話題に呼応するように、これまで翻訳家のみなさんが受けたひどい扱いがツイッターで流れてきて、現在編集者である私にとっては辛い読書になるのではないかとちょっと二の足を踏んでいる。

 

もちろん私は翻訳者に対して不誠実な態度をとったことはない(はずだ)。はずだ、と書いたのは、自分はまったく気づいていないところで、ひどいことを言ったりしたりしている可能性がないとは言い切れないから。ただ少なくとも、自分自身が何年も翻訳学校に通い、下訳や共訳や雑誌の翻訳、それにリーディングをたくさんやって、やっと本の仕事をするようになって、でも翻訳だけでは食べていけなくて、いろんな種類のアルバイトをやったり、妹にお金を借りたりしていっぱい辛い思いをしたから、翻訳者(とくに駆け出しの)の経済的な苦境とそれでも本を出したいという情熱に、誰よりも寄り添う編集者になろうと思っていた。

 

それでも、持ち込みの翻訳者さんをがっかりさせてしまったことは何度もあるし、こちらから依頼してレジュメを書いてもらったのに、企画会議が通らずに断念したこともある(レジュメ代だけお支払いした)。今回の異動前に検討中だった企画も何本かあり、試訳をいただいていたものもあった(試訳代だけお支払いした)。レジュメも試訳も、企画が通らなかった場合はレジュメ代・試訳代をいくらお支払いします、と伝えてはあったけれど、訳者さんからしたらお金じゃないんだ、この本を出したかったんだ、という気持ちだろうなと思う。

 

自分自身の翻訳家時代、そういうエピソードはあったかというと、やはりそれなりに、いろいろあった。同じ出版社から、2冊連続で1冊まるまる訳して編集者と細部の打ち合わせまで進めてたのに刊行中止、ということがあって、このときはたしか、予定していた印税の半額程度をそれぞれもらったと記憶している。編集者の方は熱心で誠実なお仕事をされていたと思うけど、上司の許可がなかなか出ない、という話だった。私の翻訳がだめなのかな、と当時は悩んだけれども、たぶんその会社の企画進行の方法がまずかったんだろうと今になってみるとわかる。まわりにも何人か、その会社から刊行中止の憂き目にあっていた。

 

それからもう1冊、まるまる1冊某翻訳家の下訳をして、先生の名前で近刊案内まで出たのに、担当編集者が異動だか転職だかでいなくなってしまい、企画が流れた、という本がある。ネイティブ・アメリカンの作家の書いた幻想文学で、内容が結構難しかったので相当時間をかけて訳した。英語でどうしてもわからないところを解決するために、英会話学校のプライベートレッスンをとったりもした(もちろん自費)。翻訳データは先生に渡したきり、コピーなどもとっていなかったので(なにしろ20年以上前のことだ)、今となってはどんな翻訳だったかふりかえるすべもないのだけれど、なかなか面白い作品だったことは間違いない。「他の出版社から出せるように働きかけているから」と先生は言っていたけれど、もう忘れているだろうな。というわけで、これが唯一、下訳料をもらいそびれた案件。当時は下訳料を払わない先生が大勢いたと聞いているけれど、わたしは図々しく催促するし、いつもお金がなくてピイピイだったので、この一件以外はもらいそびれることはなかった。

 

ちなみに、2冊連続で刊行中止を出した出版社は、今はもう翻訳出版はほとんどやっていない。担当編集者はまもなく退職して起業したらしい。下訳が流れた出版社は、今も時々、翻訳小説を出しているけれど、あのときの外国文学のシリーズは、もちろんもうない。翻訳出版をめぐる状況は年々厳しくなっているように思うし、残念ながら私もまた、唐突に翻訳出版を離れざるを得ないことになってしまったわけだけど、だからといって翻訳出版に未来がないとは思わない。楽観的にすぎるのかもしれないが、わたしは仕事を離れても毎日、ネットやツイッターで翻訳書の情報に触れ、書店に行けば必ず翻訳書の棚をながめ、翻訳書を買って、読んでいて、翻訳書を読まない人生なんて考えられないから。

 

この週末は少しだけ仕事をしたけれど、全体としては友人に会ったり本屋さんに行ったり温泉施設に行ったりして人間らしく過ごした。土曜日の新宿は混んでいて、伊勢丹で化粧室を使おうと思ったけど並んでいたので、勝手知ったる紀伊国屋書店の3Fの化粧室を借りた。せっかくきたんだからと短時間書棚をながめただけで、欲しい本がどんどん出てきてしまい、うーん、どうしよう、と思いつつ、最終的に選んだのがこの2冊。散財。

 

魯迅と日本文学: 漱石・鷗外から清張・春樹まで

魯迅と日本文学: 漱石・鷗外から清張・春樹まで

  • 作者:藤井 省三
  • 発売日: 2015/08/21
  • メディア: 単行本
 

 

 

ミルクマン

ミルクマン

 

 

国語の勉強

最近は朝から晩まで学参のことを考えている。学参というか教育関係の仕事はどうやら、オンオフをぱきっと分けにくいみたいで、誕生日の今日も(あ、もう日付変わっちゃった)だらだらと同業他社のホームページを見たりお金の計算をしたりして過ぎてしまった。

 

国語はずっと得意だった。小さい頃から本を読むのが好きだったし、文章を書くのも好きだった。辞書を引く習慣なんてまるでなかったし、読書記録をつけたり、メモをとりながら読んだりすることもなかったけど、学校の国語のテストで間違えることはまずなかった。

 

でも国文科出身の母が「国文科は就職口がない」と言い張ったのと、日本語の本は勝手に読めるから趣味で読めばいいか、と安易に考えて英文科に入った。英文科の授業は楽しかったけど、クラスメートのほとんどが英語が好きで英文科に来ているということを知り、驚いた。同時に、「英会話」と「LL」の授業がまったくついていけず、このままだと落第しそうということがわかり、あわてて英語の勉強をはじめた。私の大学は卒業論文は日本語可だったので、張り切って日本語でキーツのオードについて書いた。そこそこ好成績だったように思う。

 

社会人2年目に突然、翻訳家になりたいと思いつめて翻訳学校に通い出した。短い文章を翻訳して提出しているうちはよかったけれど、長い文章になると全然根気が続かない。また、英米の文化を本を通してしか知らないということもコンプレックスだったので、一念発起してイギリスに留学。わずか3ヶ月だったけど、なけなしの貯金と退職金を使い果たして、なんとかケンブリッジ英検のProficiencyをとって帰国。

 

それからまあいろいろあって、翻訳家じゃなくて学校の先生になろうと思い、なぜか英語じゃなくて国語だーっと思い、通信教育で国語の免許をとって、神奈川県の採用試験を受けて、無事合格して葉山の中学校の教壇に立ったのが、27歳のときだった。

 

最初の授業で何を扱うか、春休みの間じゅう考えて、選んだ素材がなんと、『エースをねらえ!』に出てくる「庭球する心」だった。もう、今思うとあまりに自由すぎる選択で、たぶん日本中でこれを素材にして国語の授業したのって私一人だけだよね。ただ念のために書いておくと、これを詩として鑑賞したとかそういうことではなくて、中学校1年生に対して、なぜ国語を学ぶのか、中学校の国語ではどんなことを学ぶのか、というような話をする題材として使ったのでした。

 

それでここでもまたいろいろあって、学校を去ることになり、最後の授業で扱ったのは、茨木のり子の「自分の感受性くらい」だった。こちらはまとも、というか、まあ普通の選択。でも、最初の授業と最後の授業でどちらも「詩」を扱ったのは、1コマで完結しやすいという理由だけじゃないと思う。当時中学生に「先生は物語とか詩のときはすごいはりきってるけど、説明文のときはそうでもないね」と言われてしまったくらい、わたしは文学が好きなのだ。これまでの56年の人生で、進んで評論を読んだことなんてほとんどない。でも!!

 

でも、学校のテストで評論文が出ても、ほとんど間違えることはなかった。問題集を解いたことも、解法のテクニック的なものを学んだことも、塾や予備校に通ったこともない。趣味で読んでいる本はほとんどが小説で、評論を読むことはないし、恥ずかしながら若い頃は、新聞もあまり読んでいなかった。それでも、国語のテストは得意だったのだ。

 

なぜこんなことにこだわっているかというと、仕事で国語の学参を調べていると、必ず「評論文の読み方」「小説の読み方」がまるで全く別のものであるかのように語られているから。評論だって小説だって、同じように読めばいいんじゃん? そういえば、文芸翻訳と技術翻訳について、イシグロの訳者として知られる土屋政雄氏は、「基本的には同じですよ」と言っていたっけ。

 

それでも大学受験のとき少しだけ勉強したのは、古文と漢文。学校の教科書を繰り返し音読するというなんとも原始的なやり方で勉強していた。漢文の勉強は、中学生だった妹に教科書ガイドを渡し、私は教科書を見ながら書き下し文にしたり、口語訳をしたりする。間違えると妹が教えてくれるんだけど、妹と二人で、「こうおうのへいがいかにへきす!」とか「ぐやぐやなんじをいかんせん!」とか叫んでた日々が懐かしい。

 

30代半ば、翻訳家としてデビューしたものの安定収入が得られるまでにはまだまだ時間がかかりそう、という状況のなか、家から自転車で行ける距離にある編集プロダクションの、国語学参の編集アルバイト募集の広告を見つけた。ただ当時はたいていの求人に年齢制限が書かれていて、この広告も30歳以下、だった。でもあきらめるのは惜しい。思い切って電話をしてみた。自転車で行けるから交通費がかからないこと、元国語教師であること、を強調し、最後に「年齢制限は超えてるんですけど、若く見えます!」とアピール。これが決めてになったのかどうか、とにかくこの編集プロダクションでアルバイトとして働き始めた。昼はこの会社で小学校の教科書準拠テストを作り、夜はポルノ小説やホラー小説を訳す、という二重生活を約6年。大学の英文科を出てから、38歳でいまの会社に就職するまで、公私ともに波乱万丈、なんでもありの人生のなか、英語と国語の間を行ったり来たり。考えてみれば就職してからも、国語の教科書に11年、翻訳書の編集に6年、で、いままた国語の世界に戻ってきた、というわけなので、このまま国語に落ち着くのか、また英語のほうに向かうのか、よくわからないけどとりあえず国語学参の仕事がんばろう。なんて書いてたらもうじき5時だ。寝なくちゃ。読み返さないで寝る。

 

 

 

 

 

 

思い違いはなぜ生じるのか

なぜなぜシリーズ第二弾! などとふざけている場合ではないのだ。昨日書いた記事について、件の同僚から「同僚曰くのところがかなり私が言いたかったことと違います」とメッセージが届いた。「人伝になるとおこりがちですので訂正とかは不要です」と書いてくれてはいるjものの、ええ、そうなの??という感じで、誤解していたという認識がなかったので、真意を詳しく聞いてみた。

 

そうしたら! なんというか、全然、わたしの認識は間違っていたではないか! 最悪なのは、この話題のときに彼女に見せられたワークシートの「羅生門」は、横書きではなく縦書きだった、ということだ。ワークシート類でG Suiteを使用すると横書きになってしまうけれど便利な機能がある、ということでPC画面を見せてもらったのだが、どうやら私はその瞬間に、羅生門を横書き、ありえない! というバイアスがかかってしまい、羅生門の素材文は縦書き、選択肢のみ横書き、というワークシートサンプルの記憶が吹っ飛んでしまったらしいのだ。

 

これはもう、平謝りするしかなくて、彼女は鷹揚に別にいいですよ、それだけ(選択肢の)横書きにインパクトがあるってことがわかったのでよかったです、と言ってくれたのだが、私としては申し訳ないやら、情けないやら。でもとにかく彼女はゆるしてくれたので、なぜこんな思い違いが生じたのか、今後のためにも少し考えなくてはいけないな、と思った。

1 もともと思い込みが激しい性格である→これは自覚があるので、これからますます注意しないといけない。人の話はちゃんと聞け、といつも同居人から叱られている。

2 彼女は私のデジタル分野の先生とも言うべき存在で、IT関係に強く、英語もできる賢い女性→だから彼女は縦書きなんて遅れてると思っているだろう、という思い込みが発生した。国語力は私のほうが上よ、的なうぬぼれもあったかもしれない。

3 縦書きが淘汰されていくのではないか、という不安に常日頃からとらわれている→実はこれが一番大きかったのではないかと思う。昨日のブログに「淘汰」という言葉を使ったけれど、彼女は「縦書きが淘汰される」とはおもっていません、と断言していた。つまり、「淘汰」という言葉を選び取ったのは私自身ということ。

 

というわけで、せっかく再開したブログなんだけど、いきなり派手な失敗をしてしまったのだった。くしくも今日は、ツイッターでも何気なく書いたツイートが、もしかしたら元ネタのツイートをした方の逆鱗にふれちゃったかもと思うような事件があり(誤解だったようで、ほっとしました)、私のような人間はSNS向かないのかもしれないなーと自信をなくした1日でもあった。がっくり。

なぜ縦書きにこだわるのか

今日、同僚と国語のデジタル教材について話していて、教材文の横書き提供について大きく意見が食い違ってしまった。同僚曰く、生徒が日常的に触れている文章は圧倒的に横書きが多いのだから、近代以降の文章についてはデジタル教材上は横書き提供でOKだし、今後は縦書きは淘汰されていくと思う、とのこと。

 

「今後」というのがどれくらいのスパンをいうのかわからないけれど、私は紙媒体も縦書きも少なくともあと50年は残ると考えていて、学校の国語の教科書や教材は完全デジタル化されてタブレット学習になったとしても、国語の縦書きは残るのではないか、と思っている。「なんで縦書きにこだわるんですか」と同僚に聞かれて、もごもごと答えたのは、縦書きは日本文化の重要な遺産で、国語の教科書はそれを守る砦のようなものだから、というようなことだった。が、この答えに説得力があるとは思えない。

 

たしかに今書いているこのブログも横書きだし、ツイッターやメールその他、すべて横書き。ついこの間まで作っていた翻訳ものの図鑑類はすべて横書きだった。でも、日常的に読んでいる新聞や文庫本、単行本などは、ほとんどが縦書き。これらの電子版は縦書きで提供されることが当然だと思い込んでいる。なぜなんだ、なぜ縦書きにこだわるんだ、とよく考えてみると、少なくとも「守るべき日本文化だから」なんていう保守的な理由ではないような気がする。同僚の言うとおり、「最初は抵抗感があっても、だんだん慣れてしまうもの」なのだろうか。

 

以前に海外文学を紹介している雑誌がオール横書き、という試みをしていたことがあった。そのときも、わたしはこのブログに、横書きがどうしても気に入らない、というような感想を書いたという記憶がある。でも、寄稿している名だたる外国文学者や翻訳家は横書きに抵抗がなかったのだろうから、もしかしたらわたしがこだわりすぎなのかもしれない。困った。だれかわたしのかわりに、たとえば「羅生門」の本文が横書きで表示されるのは耐えられないのはなぜか、論理的に説明してくれないだろうか。そうでないとこのままでは「横書きでOK」派におされてしまいそうな気がする。ううう。

1年以上ぶりに

1年以上ぶりにブログを書いてみることにした。たまたま自分の過去のブログを検索する機会があり、読み返してみたら案外忘れてることばかりで、記録に残しておくことって大事だなと思ったので。でも改行の仕方とか、見出しの付け方とか、写真の載せ方とか、みんな忘れちゃった。まあいいや。やっているうちに思い出すでしょう。

 

9月に仕事が変わった。翻訳書の編集の仕事はほんとうにやりがいがあったし楽しかった。どんなに楽しかったか、どれほど情熱を傾けたかを語り始めたらきりがないし、なんだか未練がましいので、いまのところは控えよう。もっと後になって、そうだな、定年になって退職してからなら、もう少し落ち着いて振り返ることができるかもしれない。いまはただ、エージェントさんから預かっていた原書を送り返すために段ボールに詰めていたとき、がまんしていた涙がポロポロとこぼれてしまった、とだけ書いておこう。

 

新しい職場は、作る本の中身が変わった(一般書→学参教材)というのが一番大きい変化なのだけれど、実は意外にインパクトがあるのが、職場のメンバーの年齢構成だ。以前は4人のうち55歳の私が最年少という高齢チームだったんだけど、いまは8名のうち年上は2人だけで残り5人は全員年下。中には20代の若者もいるのだ!みんな賢く落ち着いていて安定感があるのであまり「若い!」という感じはしないけど、ふとしたときに彼らはこの先何十年もこの会社で働いていくんだな、と思うと、今まであまり感じなかった責任感というか使命感のようなものが生まれて、がんばらなくちゃな、と思ったりもするのだった。

 

なーんて余裕をかましていられるのは、いまのところまださほど忙しくないからだろう。ここのところ土日はほぼきちんと休んでいて、コロナで旅行などはできない分、近郊の温泉施設に行ったり自転車で近所を走り回ったりと、のんびりした休日を過ごしている。昨日は最近発見した穴場の温泉施設に行った。家から2時間ほどかかるのだけれど、海を見ながら温泉に入り、ランチを食べ、午後じゅうお昼寝したり本を読んだりとだらだら過ごす。読書会に間に合うようにと『ナイルに死す』を持っていったんだけど、間に合わなかった。というわけで、今日のオンライン読書会は視聴せず。でもみなさんの書き込みを見たら相当盛り上がったみたいで、うーん、しまったな。

 

以前は面白くてもつまらなくても、とにかく読了したら本のタイトルだけでもブログに書く、というルールをつくっていた。この2、3年はブログをさぼっていたせいで、読書記録が残っていない。ツイッターには一応、「読了〜」とか書いたりしてるけど、これは全部じゃなくて、おもしろくなかったときはスルーしている。「読了したら書く」ルールだったころは、たとえば百田尚樹の本とかも読んだ記録と感想めいたものが残っていて、これはこれで結構意味があるんじゃないかなあと思った。ので、この読書記録だけはがんばって復活しようと思う。ええと、今日から。(今日はまだ、『ナイルに死す』読み終わってないから書けない。)