なぜ縦書きにこだわるのか

今日、同僚と国語のデジタル教材について話していて、教材文の横書き提供について大きく意見が食い違ってしまった。同僚曰く、生徒が日常的に触れている文章は圧倒的に横書きが多いのだから、近代以降の文章についてはデジタル教材上は横書き提供でOKだし、今後は縦書きは淘汰されていくと思う、とのこと。

 

「今後」というのがどれくらいのスパンをいうのかわからないけれど、私は紙媒体も縦書きも少なくともあと50年は残ると考えていて、学校の国語の教科書や教材は完全デジタル化されてタブレット学習になったとしても、国語の縦書きは残るのではないか、と思っている。「なんで縦書きにこだわるんですか」と同僚に聞かれて、もごもごと答えたのは、縦書きは日本文化の重要な遺産で、国語の教科書はそれを守る砦のようなものだから、というようなことだった。が、この答えに説得力があるとは思えない。

 

たしかに今書いているこのブログも横書きだし、ツイッターやメールその他、すべて横書き。ついこの間まで作っていた翻訳ものの図鑑類はすべて横書きだった。でも、日常的に読んでいる新聞や文庫本、単行本などは、ほとんどが縦書き。これらの電子版は縦書きで提供されることが当然だと思い込んでいる。なぜなんだ、なぜ縦書きにこだわるんだ、とよく考えてみると、少なくとも「守るべき日本文化だから」なんていう保守的な理由ではないような気がする。同僚の言うとおり、「最初は抵抗感があっても、だんだん慣れてしまうもの」なのだろうか。

 

以前に海外文学を紹介している雑誌がオール横書き、という試みをしていたことがあった。そのときも、わたしはこのブログに、横書きがどうしても気に入らない、というような感想を書いたという記憶がある。でも、寄稿している名だたる外国文学者や翻訳家は横書きに抵抗がなかったのだろうから、もしかしたらわたしがこだわりすぎなのかもしれない。困った。だれかわたしのかわりに、たとえば「羅生門」の本文が横書きで表示されるのは耐えられないのはなぜか、論理的に説明してくれないだろうか。そうでないとこのままでは「横書きでOK」派におされてしまいそうな気がする。ううう。