少しずつ見えてきたこと

無職になって2週間が過ぎた。退職したらゆっくり本を読めるかな、と思っていたけど、全然無理だった。毎日やることがあって、それなりに迷ったり、小さく失敗したり、小さく嬉しいことがあったり、と、個人的には在職時とあまり変わらず、忙しく、刺激的な毎日を送っている。

 

この2週間のあいだに、役所関係の手続きをしたり、数十年ぶりにハローワークに行ったり、と退職にまつわるさまざまな事務仕事に追われた。思っていたよりずっと大変だということと、なんだかんだいっても出版社というのは人権や差別に対して敏感で配慮が行き届いていて、そういう面ではとても守られた、恵まれた環境にいたんだなあ、ということを感じている。(急に「奥様」と呼ばれたり、「ご主人様はお勤めですか」と聞かれたりするようになった、という程度のことなんだけど、結構げんなりするのだ)

 

でもまあ、そのようなことがあるのはもちろん世間一般というか、役所関係や銀行、不動産屋などの担当者だけで、退職のお祝いをしましょう、とか、フリーになったのなら一度お会いしませんか、とか、言ってくれた人たちは、もちろん「奥様」としての私には関心がなく、退職後は何をするつもりなのか、どれくらい、どんな感じの仕事をするつもりなのか、をたずねてくれる。ありがたいことだ。

 

そうやっていろいろな人と話をしていく中で、少しずつ見えてきたのは、私はやっぱり編集の仕事が好きなんだな、ということと、できれば文学や翻訳にかかわる仕事をしていきたいということ。定年まで4年を残して早期退職してしまったので、ある程度は稼がないといけないのだけれど、会社勤めの年収と同程度を稼がなくてはいけない、というほど追い詰められてはいないので、いきなりはむりでも、少しずつ、文学や翻訳の方に近づいていけたらいいな、と思っている。

 

そんな中、今日はたまたま大学の文学研究者グループのオンライン読書会に参加する機会があった。課題図書はケストナー飛ぶ教室』。児童文学だし、既読だし、ということで、わりと気楽に参加したのだけれど、3時間、みっちりと内容の濃いお話で、とても楽しかった。何より全員が文学研究者なのだけれど難しい言葉を使わず、本文に即して具体的に語っているので、素人でも十分議論についていけた。考えてみると、同居人以外の人と文学について話したり、文学についての議論や講演を聞いたりすることから、ずいぶん長いこと離れていたような気がする。教科書編集時代の教材化会議や素材選定会議、『世界文学アンソロジー』の編集会議は、大変だったけどほんとうに楽しかった。退職したのだから、もう自分が好きなことをやればいいんじゃないか、と思って、これからはどんどん読書会や勉強会にも参加してみようと思う。お仕事につながるかどうかとかはあまり考えず、面白そうなことにはどんどん首をつっこんで、多少場違いだったりして恥ずかしい思いをするかもしれないけど、それはそれで、ごめんなさい、とあやまって引っ込めばいいんじゃない? と思うくらいの図々しさは身についた。失うものは何もないのだから。

 

その一方で、元の職場の後輩からどーんと仕事を頼まれて、ありがたいんだけどすごい分量で、むむむ、となっている。年内いっぱいで同居人も定年退職なので、在宅ワークに集中できるように、家から歩いて15分くらいのところに二人で部屋を借りた。本と仕事道具以外は何もおかず、読書と仕事以外は何もしない部屋にしようという計画なので、テレビもガスコンロもない。作業机と防寒を兼ねたこたつだけ、通販で安いのを買って、さらに一つだけ、贅沢な買い物をした。「ヨギボー」である。

 

定年まであと4年、予定外に退職をしてしまった私と異なり、同居人は堂々たる「定年退職」。働かなくても誰からも後ろ指を指されることもない。なので、彼はどうやら、ガツガツ仕事をしている私の横で、ゆったりと「ヨギボー」に沈み込み、好きな本を読んだり、足でツンツンと蹴ってフラットになった「ヨギボー」でお昼寝したり、という夢のような生活を思い描いているらしい。(でもまあ、そうはさせない、と思っているのは、私だけではないようだ。)「本」と「こたつ」と「ヨギボー」。明日から新しい生活が始まる。