重版とかブックフェアとか

今日で1月も終わり。仕事が始まったらなんだかんだ忙しくて、また更新が滞っていた。
でも、ブログ再開したおかげで、久しぶりにブログ仲間と連絡をとりあい、いっしょに「文芸漫談」行って、どっかんどっかん笑って過ごすことができた。まあこんな感じで気が向いたらちょこっと書く、というようなことを続けられればいいかな、と思う。


今日は朝から嬉しいニュース。編集を担当した本が、昨年12月に出たばかりなのに、重版が決まったのだ。翻訳ものだったので、エージェントさんや翻訳者に連絡をし、てんやわんやだった。訳者さんたちが喜んでくれているのが単純に嬉しい。わたしは翻訳の仕事をしていた頃、自慢じゃないが一度も重版がかかったことがない。かかわった作品はどれもいい作品ばかりだったと思うし、編集さんも力を入れてくださっていたと思うし、わたしだってもちろんがんばったのだよ。でも、売れ行きはさっぱり。初版部数は近年よりは強気だったのはまちがいないけれど、それにしても、ね。でもでも、編集者になってからはわりと好調で、担当した書名はそこそこ重版がかかっている。ドラマの「重版出来」みたいに、皆でダンスを踊る、というわけにはいかないけれど、心の中でダンス、ダンス、ダンス。


それから、マイルがたまったのであきらめていたロンドンのブックフェアに、今年も参加することにした。もちろん自費。なので、ブックフェアは1日か2日の参加で、ほかの日はひとりで観光を楽しむつもり。去年はシェイクスピア詣(4月)とホームズ詣(10月)だったので、今年はオースティン詣にして、ウィンチェスターとチョウトン村に行ってみようかと思っている。もう少し時間があればヘイ・オン・ワイに行ってみたいのだけれど、ロンドンからの日帰りは無理なようなので、今回はあきらめた。まあ、ロンドンの町は、ただ散歩しているだけで楽しいから、とくに計画をたてる必要もないような気もする。


実は、ロンドンのブックフェアに2回、フランクフルトのブックフェアに2回参加してみて、次はもういいかな、と思っていた。エージェントさんがミーティングを組んでくださり、いろいろな版元さんに新作を紹介していただくのだけれど、実際に企画として成立させるのはめちゃくちゃ大変だからだ。自分はおもしろそうな本をたくさん紹介してもらって、その間はほんとうに楽しくて、Happyなんだけど、結果的に企画にならないと、相手方に申し訳ないなーと思う。大事な時間をわたしとのミーティングのために使ってもらったのに、ううう、となる。


でも、今年はお正月に、某社の翻訳企画がベストセラーになって、それが会社の上司の耳にも入り、なんとなく翻訳書に期待してるよ、的な空気になってきた。もちろん、ベストセラーになる本は版権料も高い場合が多いし、それなりにがっつり仕込みをしてる場合がほとんどなのだろうけれど、それでも、チャンスがないわけじゃない。他社の翻訳書の編集者に話を聞くと、みんな当たったり外れたりしながら、なんとか当たる確率をあげるべく奮闘しているといったところのようなので、よおし、それならやっぱり、マイルもたまったことだし、今年もブックフェア行ってみよう、となったわけだ。


ただ、せっかくロンドンまで行くのに、一人旅っていうのが味気ない。ひとり旅のほうが気楽でいい、という人もいるけど、わたしは「これおいしいね」とか「きれいな景色」とか言い合う相手がいない旅というのはやっぱりちょっとつまらないな、と思ってしまう。宿代も食事代も、ひとりよりふたりのほうがぐんとお得だし。ま、でもせっかくなので、3年連続のロンドン、めいっぱい楽しんでくることにしよう。

『狂うひと』と『S先生のこと』

金曜日の会議は、若い優れた外国文学者が集まり、充実したスリリングな議論になった。会議のための準備はかなり負担がかかるもので、現段階では無報酬。にもかかわらず、全員がきっちりと準備をしてきたうえで、率直な意見交換がなされる。研究者としての自身のフィールドと、今回の企画とのあいだのバランスをはかり、商業出版として成立させることの困難も理解して、知恵をしぼっている。この企画は地味だけどなんとしても成功させたい。何が「成功」かと考えると難しいけど。


でも、会議後の懇親会で、お雑煮の話や嫁姑問題、保育所さがしの話などしていると、ごく普通の年下の社会人だ。とくに、わたしより一回り年下の大学の先生が、お正月はずっと「嫁」として台所でに立ちっぱなしだった、なんて話を聞いて、かなりびっくりした。大学のポストを得るまでは、中華料理店でアルバイトをしていた、なんていう話も聞いた。それでも文学研究を続けようと思ったのはなぜですか、とつまらない質問をしたら、「やっぱり文学研究が楽しかったからかな」という、ありきたりの返事が返ってきた。それから、「先生や研究仲間がいて、このひとたちとずっと一緒にいたいと思った」と言った人もいた。なんとセンチメンタルな、社会をなめてる、と思うひともいるかもしれないけど、わたしはちょっと感動した。思えば会社員生活も長くなり、自分を「労働者」と考えることも多くなったけど、もともと自分は給料をもらうために働いてる、という意識が希薄で、自分がおもしろいと思えることを、一緒にいて楽しいひとたちとやってる、だから多少のつらいこともがんばれる、みたいなところがある。そういう考え方はいまは流行らないというのはわかっているし、他人にその考えを押し付けるつもりはない。でも、自分より一回り以上年下の、あきらかにキレッキレの学者さんが、同じような価値観で働いている、文学研究に取り組んでいる、ということがなんか嬉しかったのだ。


嬉しいついでに帰路の電車の中で、島尾敏雄が好きだという日本文学の研究者に、『狂うひと』を激賞してしまった。その先生はわたしの要領の得ない説明と、例によって自分の体験にひきつけて読む没入型の読書体験を馬鹿にすることなく耳を傾けてくれた。そして、自分が昨年読んでとても感動した本として、なんと『S先生のこと』を挙げて推薦してくれたのだ。もう、猛烈に嬉しくなって、『S先生のこと』の元になったブログを初めて読んだときのこと、同居人と「これを本にしたいね」と話していたこと、立派な本になって読み返してまた感動を新たにしたこと、歴史のある文学賞を受賞したこと、などを夢中になって話した。


気づいたらあっという間に降車駅に着いていて、もっと本の話をしたいと後ろ髪をひかれながら電車を降りた。仕事とは何の関係もないけれど、具体的に何の役に立つこともないけれど、文学や本の話をできる人といっしょにいるということはほんとうに幸せなこと。3連休が終わり、いよいよお正月気分も今夜まで、ということで、少しだけ気持ちがどんよりするけど、明日は新企画の相談でエージェントに行くのだし、何より、夜はカフカをめぐるトークイベントがあるのだ! これを楽しみに、明日いちにちを乗りきるぞー!

仕事はじめ

今日から会社。社長の新年挨拶は、各編集部門への気配りなのか、全部門に言及していたのだけれど、私が所属する単行本セクションについては、あまり力が入ってないのが明白で、でも「ヒットは期待しています」と付け足しのように言っていた。家に帰って同居人に、「なんか会社から期待されてないって感じがしたなあ」とぼやいたら、同居人はそういう位置こそベストなんだ、と言う。主力商品を作っていたら、社長以下周囲の目が厳しくて不自由だけれど、非主流派だと注目されていない分、自由にやりたいことができる、というのが同居人の論。そんなものかな。


ともあれ、会社から期待されようとされまいと、仕事は次々押し寄せる。今日は最後の修正のチャンスで、ほぼ間違いはない、と思っていたはずなのに、アルシア=マルケス、なんていう記述が見付かっちゃって、ひゃあああ、となった。刊行前に見つけた大誤植の一つに、教師用指導書のタイトル、というのがある。言わずと知れた森鷗外の名作のタイトルが、なぜか大きな文字で、「歌姫」となっていたのだ。現在の会社に入る前の、編集プロダクション時代のことだ。このときも、見つけたときは、ひゃあああ、となった。誤植はこわい。何度見返しても、「これでもうバッチリOK!」となることはないのだけれど、それでもあと3日、連休明けまで延ばしてもらえませんか、と最後の悪あがきをしている。


明日の会議にそなえて、世界文学の名作(おもに短編)を読んでいる。もともとわたしは長編好きで、短編はあまり得意じゃない。短編は、この作家はうまいなあ、とか、これはこういうテーマの作品なんだな、とか、冷静に客観的に読むことはできるのだけれど、なんていうか、勉強しているみたいだ。明日の会議のメンバーは、ほんとうに頭の切れる方ばかりなので、選んでいる作品もわたしには難しすぎるように思う。一編ずつ、落ち着いてじっくり読めば、じんわりと面白さがわかってくるのかもしれない。あるいは、細切れの短編を読むという作業に慣れてくれば、作品世界に入り込むことができるかもしれない。


明朝は記念すべき早朝テニス復活初日だ。バックハンドはおろか、フォアハンドや得意のスマッシュも、思うようにできないだろうな。張り切りすぎて転んだりしないように気をつけなくては。なので、今日はもう寝ます!

松之山温泉で『狂うひと』を読む

ここのところ年末年始に岩手や福島など、雪深いところの温泉に行くことにしている。今年は新潟に行ってみよう、ということになり、海沿いの温泉に一泊、松之山温泉に一泊して、温泉三昧してきた。


私にとって温泉三昧とはつまり、読書三昧ということ。どの本を持っていくか、というのを考えるのが、めちゃくちゃ楽しい。今回は、同居人が絶賛していた『狂うひと』をメインに、万一、それが読み終わってしまった場合、またはどうしてもノレなかった場合に備えて、文庫本を2冊、持参した。


行きの新幹線の中で読み始めた『狂うひと』は、文句なしに面白く、読み始めたら止まらない。電車の中、宿についてから、寝る前、と、止まることなく読み続ける。途中、既読の同居人と内容についてあれこれ話し、二人でひとしきり大絶賛してから、また続きを読む。結局、二日目の松之山温泉で、深夜に読み終わった。

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

島尾敏雄の『死の棘』をはじめて読んだのは、たぶん22歳か23歳、丸の内の商社で働いていた頃だった。東京から自宅のある大船まで電車で約50分、残業して乗った電車は満員というわけではなかったが、座席を確保できるほどは空いておらず、わたしは立ったまま文庫の『死の棘』を読んでいた。この本についてある程度前知識があったはずだけれど、おそらくこれほどの狂気の描写があると思っていなかったのだろう、夢中で読んでいるうちに、電車の揺れのせいもあってか、だんだん気分が悪くなってきた。あ、まずいな、と思い、本を閉じて、その場にしゃがみこんだところまでは覚えている。気づいたら、知らない人が腕をひっぱって、座席に座らせてくれた。「だいじょうぶです、だいじょうぶです」と言って、次の駅で降りて、ベンチでしばらく涼んでいた。頭の中は『死の棘』のさまざまな場面でいっぱいで、これ以上読み続けるとまた気分が悪くなると思い、しおりを挟もうと思ってカバンの中を探したら、ない。どうも、電車の中で倒れたときに落としたらしい。


これは、神様がもうこの本は読まないほうがいいと考えたにちがいない、と思い、それきり読むのをやめた。後にも先にも、小説を読んでいて入れ込みすぎて具合が悪くなった本は、この1冊だけだ。読みながら、わたしは島尾敏雄をひどい男だとは思えなかった。妻の狂態も他人事とは思えなかった。わたしの小説の読み方は、基本的には昔も今も変わらず、自分に重ねて読むので、当時、未婚の若い女だったにもかかわらず、夫に裏切られた妻に思い切り共感し、一緒に苦しみ、ついに貧血を起こして倒れてしまったのだ。


再読したのは(というか、後半は初読だ)30代後半か40代前半、自分自身、いろいろな経験をした後のことだ。さすがに図太くなって、気分が悪くなることなく最後まで読みきったが、やはりこの小説は、他人事とは思えない、自分の心の中のどこかを、ぎゅっと握ってぐにゃぐにゃ動かされているような感じがする、特別な本だと思った。

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

『狂うひと』は「新潮」の連載でその一部を読んで、これはすごいな、と思った。もしかしたら、20代の頃、ごく普通のOLだったわたしがあれほど(電車の中で倒れるほど)共鳴した理由がわかるかもしれない、と思った。それで、結論を言うと、少しわかった。少し、というのは、完全にわかったわけではないから。それと、どんなふうにわかったかを、うまく言葉にすることができないから。少なくとも、この梯さんという女性作家が描く島尾夫妻が、これまでのどんな評論や感想よりも、わたしにはぴったりとはまって腑に落ちたのは間違いない。それは、調査やインタビューの深さ、緻密さ、文章や構成の巧みさなどもさることながら、ミホと千佳子という二人の女性の側に徹底して寄り添い、彼女たちにとっての「死の棘」を描き出しているからだ。わたしが読んだのと同じ視線で、しかしはるかに冴えた視線で、「死の棘」の登場人物たちを、戦中・戦後の時代を、奄美と東京を、とらえているからだ。ミホと千佳子に加えて、本書にかかわる三人目の女、梯久美子という作者その人に、猛然と興味がわいた。


先月、本書の刊行記念で、梯さんと島尾伸三さんの対談イベントがあったのは知っていた。行きたい、と思ったけれど、年末で忙しかったことや、何より本書を未読でイベントに行くのはどうかということもあって、結局、行かなかった。そこではどんな話が出たのだろう。調査やインタビューからわかることもあるし、深く考えて思いをめぐらすことで見えてくることもある。もしかしたら、何が事実か、真実はどうだったのか、というのは、どうでもいいことで、重要なのは、『死の棘』という小説に描かれていることを、梯さんはどう読むのか、わたしはどう読むのか、ということのような気もする。


今年の夏は、沖縄に行くかわりに、奄美に行ってみようか、と同居人と話している。もちろん、島尾敏雄のゆかりの地だから、というだけじゃなくて、きれいな海や大自然がメインの目的だけど。などと書いているうちに、ずいぶん遅くなってしまった。明日から会社。寝なくちゃ。

あけましておめでとうございます

ついに昨年は、1回しかブログを書かなかった。
ほとんどクローズ同然なんだけど、なんとなく完全にやめてしまう気になれない。
なんだかんだ言いながら、2006年から10年も続けてきたのだし、ツイッターばかりだと長い文章を書くのが億劫になってしまう。まあ、そもそも自分だけのために始めたブログなのだから、たとえ結果的に年に1回になったとしても、余裕があったり、書いてみる気になったときに、ちょこちょこ書けばいいかな、というくらいの気持ちで、また書いてみることにしよう。


そういえば、ブログの書き方を忘れてしまった。一文ごとに改行するのだったかしら。あるいは、段落ごとにだらだらと続けて書いて、改段するときだけ2行あけるのだったかしら。そして、文体は敬体だったかな、常体だったかな。そんなことすら忘れてしまった。とりあえず、今日の気分は常体なので、常体で書いてみよう。


ブログを書かなくなったのとおそらく同じ理由で、ここのところ読書量が減っている。原因は、御多分にもれず、あれだ。ツイッター。なにしろ、会社のツイッターも担当しているので、個人・会社どちらのアカウントもそれほど頻繁に投稿しているわけではないのだけれど、ちょっとした空き時間や通勤時間、夜寝る前のひととき、などを、完全にツイッターに奪われてしまった。一人で読んで、一人で楽しむ読書を、40年以上続けてきて、そのことに何の不満もなかったのに、なんということだ。


というわけで、今年はあまり目標らしい目標をかかげることができないのだけれど、とりあえず、ブログを書いたり読書をしたりする時間を取り戻す努力はしてみようかと。あと、この1月からついに週一回の早朝テニスのレッスンを再開することに決めた。そのかわり、両親も通っているジムを去年いっぱいで退会。オープン当初から通っていたので、ちょっと残念な気もするけれど、ここのところあまり通えていなかったので、年明け心機一転、大好きなテニスを復活させることに。


昨年はベストを選ぶほど本を読んでいないので、今回もベスト本選びはお休み。近いところで、年末に読んだ『エンジェル』がものすごく面白かった。ちょっと日本の小説にはない感じ、オースティンとかウォーとかの面白さに似てるかな。映画にもなったらしいけど、本の帯に載っている映画の写真を見ると、ちょっとエンジェルが美人すぎる気がする。エリザベス・テイラーという作家は、以前翻訳学校の研究室の課題で読んだことがあり、そのときは「え、これ本名なの?」と思ったくらいしか印象に残っていないのだけれど、この『エンジェル』の面白さからすると、ほかの作品も読んでみたい。英語があまり難しくないようなら、原書に挑戦してみるという手もあるかな。

エンジェル

エンジェル

紅白を見終わってからなんとなく眠れなくて、パラパラ読んだのは、沼野充義『8歳から80歳までの世界文学入門』。「本を読むのに早すぎるも遅すぎるもない!」って帯にある。ほんとにそうだよね。5本入っている対談、どれも面白いのだけれど、自分がとくに面白く読んだのは、最後に入っているマイケル・エメリックの回。沼野さんが「『文学の進歩』を信じない男」という見出しで報じられた、という話が笑えた。そして、エメリックさんの「そもそも文学を進歩するものだと信じちゃっている人からは、すばやく逃げていくに越したことはないと思います」というコメントもいい。

8歳から80歳までの世界文学入門

8歳から80歳までの世界文学入門

明日から2泊3日で温泉。同居人が絶賛している『狂う人』をいよいよ読もうかと思っている。が、旅行にもっていくにはちと重いか。でも、『炸裂志』も「鬼殺し」も重いからね、『狂う人』と文庫の『シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱』という組み合わせにするかなー。

今年最初の書き込み。

3月の半ばに今年最初の書き込みをしているのだから、もうこのブログはほとんど閉鎖したも同然、ということなのだろう。2年前に異動してから、以前のようにこの時期死ぬほど忙しいということもなくなった。とくに、仕事の性格上、休日出勤が激減したため、本を読んだりブログを書いたりする時間は、ずいぶん増えたはずなのだ。でも、なんとなくブログを書くのが億劫になってしまって。ツイッターフェイスブックの影響が大なのは間違いないけど、久しぶりにはてなをのぞいてみると、以前のブログ仲間はほとんどみんな、以前と変わらないペースで楽しげにブログを書いてるんだよね。


なので、わたしも、ブログは気が向いたときにかけるように、閉鎖はしないでとっておこうと思う。誰も読んでいなくても、中学校、高校時代の日記のように、あとで自分が読み返すことができるように、思ったこととか、読んだ本のこととか、書いておこう。


この3連休は、珍しく3日間、完全に会社の仕事をしないで過ごした。初日は夕方から友人の編集者の誕生日祝いに行き、某業界の重鎮の方々と言葉を交わす機会に恵まれた。2日目は実家の両親と3人で近所の鮨屋でランチ。3日目は新宿で映画・温泉・本屋さん。自宅にいるときはずっと、「ダウントンアビー」のDVDを観た。ついにさきほど、シーズン6のファイナル(クリスマススペシャル)まで観て、結末(大団円)まで観て、そうか、そうか、そうなったか、という感じで心が落ち着いた。やっぱり人気シリーズになるだけのことはある。役者はうまいし、脚本もよくできてるし(シーズン4以降は英語字幕で観たので、内容すべて理解できているかどうかは怪しいものだけれど)。観ている間は自分もその世界の中で生きているみたいに、どきどきはらはら、泣いたり怒ったりしていた。来月ハイクレア城のツアーに参加するのがほんとうに楽しみ(これまた英語力の問題が立ちはだかるのだけれど)。


これまでに読んだ本を羅列だけでもしようかと思ったけど、前回書いたときからあまりに日にちが過ぎてしまって、それはちょっと難しそうだ。いま読んでるのは、『もう年はとれない』というタイトルの翻訳ミステリ。ずいぶん前に参加した読書会の課題図書で読んだ作家のデビュー作で、長いことカバンの中に入ってはいるのだけれど、いろいろと邪魔が入って(別の本を読みたくなったりして)読み終わらない。最近読んだ本でいちばん面白かったのは、ジュリアン・バーンズ『アーサーとジョージ』。ああ、『ハーレムの闘う本屋』もよかった。そうだ、直近では『チップス先生さようなら』もよかった。うーん、こうやって思い出していくと、ああ、なんでその都度、感想を書いておかなかったんだろう、と思ってしまう。とても大切な本を、忘れているような気がするなあ。

小鷹信光『翻訳という仕事』

小鷹さんが亡くなったので、ふと思い立って、若い頃バイブルのように繰り返し読んだ小鷹さんの『翻訳という仕事』を引っ張り出してみた。ジャパンタイムズから出たこの本は、初版が1991年。わたしが買ったのは、1992年10月20日刊行の第3刷だった。

翻訳という仕事

翻訳という仕事

20代の終わり、学校の先生をやめて本気で翻訳家を目指そうと決心した頃に、購入したと思われる。わたしはめったに本に線を引くことをしないのだが、なぜかこの本には赤いボールペンで何箇所か線が引いてある。いま引いてある箇所を見ると、笑ってしまう。ものすごく現実的なところにばかり、線が引いてあるのだ。小鷹さんの1日の仕事の仕方とか、どうやって編集者と知り合って気に入ってもらって仕事をもらうかとか、駆け出しの頃の翻訳家の年収(!)とか。


現在よりもだいぶ業界の状況はよかったと思うけど、それでも翻訳家で食べていくのは相当大変だ、という見通しを、小鷹さんは書いている。好きじゃなければ続かない、とも書いている。当時それを読んで、だいじょうぶ、がんばる、と思ったものだった。「わたしはたんぽぽ食べても生きていける」と豪語していたものだった。でも実際に、独り身で収入がない、という生活をしてみたら、予想以上につらかった。洗濯機なしでがんばっていたら、みかねた妹が「これで洗濯機を買って」とお金をくれたりした。未払いだった雑誌の原稿料10万円をもらうために、月に1回出版社に電話をかけ続けたこともあった。最低限の食費のほかに、家賃は確実に出ていくし、翻訳学校の授業料もある。20代の終わりだから「駆け込み婚」の友達も多くて、お祝儀が捻出できず仮病を使って欠席しようかと真剣に考えたりもした(もちろん、実行に移したことはないよ)。


もちろん、翻訳以外の仕事、アルバイトなどもしていたけれど、翻訳の仕事というのは、小鷹さんも書いているように、予想以上に肉体労働なのだ。物理的に1日数時間、パソコンの前に座って文章を作り出さなくちゃいけない。食べるためのアルバイトで忙しくなって、翻訳をする時間がとれなくなると本末転倒なので、なるべく単純作業のアルバイトを選んだほうがいいんだけど、単純作業は時給が安い。時給が高めのやりがいのあるアルバイトを始めてしまうと、翻訳のほうがおろそかになる。翻訳の勉強をはじめてからいま勤めている会社に就職するまでの10年は、ずっとこの二つの間で揺れ続けていたと記憶している。


でも結局、わたしが翻訳の仕事を続けられなくなったのは、経済的な理由よりも、翻訳という作業の孤独さのせいだったような気がする。朝から晩まで、誰とも口をきかず、一人黙々とパソコンに向かう。これが、365日、ほぼ毎日続く。作業をしていて何かおもしろい発見があったり、誰かに相談したいことが出てきたり、息抜きでおしゃべりしたいと思っても、だれも話し相手がいないのだ。就職する前の5年ほどは、アルバイトで編集プロダクションに勤めていて、ここでは一緒に働く仲間がいて、忙しかったし、身分は不安定だったけど、ずいぶんこき使われたなという印象もあるけれど、人といっしょに働くのって楽しいなと思った。自分は「一人黙々と」より「みんなでわいわい」のほうが向いてるかなと思いはじめた矢先に、いまの会社の正社員の募集があって、人生最大の決断(のひとつ)をして就職した、というわけだ。


めぐりめぐって12年ぶりに、今度は編集者として翻訳業界に戻ってきた。小鷹さんの本に一生懸命赤い線を引っ張っていた頃の自分のことを思い出すと、なんだか滑稽で、少し物悲しい。わたしがこの本をバイブルのように思っていたのは、きわめてクールに現実を直視していたことと、その一方で翻訳という仕事に対する情熱と使命感にあふれていたためだろう。当時もいまも、すぐにでも翻訳家になれるようなキャッチコピーの本や、お手軽な学習本はたくさんあるだろうけど、この本は特別に優れた本だったと思う。


そうだー、読み終わった『『罪と罰』を読まない」の感想を書かなくちゃ、ねー。感想書きにくい本なんだよねー。いま、遅れ馳せながらウェルベック服従』を読み始めた。前に『素粒子」を読み始めてとちゅうで挫折しちゃったんだけど、『服従』は最後まで読めそうな感じ。これまでのところなかなかおもしろい。あと、後輩が面白かったと言ってたので、某若手社会学者のデビュー作が文庫になっていたので電車の中用で読み始めたんだけど、こちらは私的にはいまいち。いまの若者と比較される1980年頃の若者像が、あまりに類型的でいらっとする。世代論ってどうして、自分の世代はいろんなタイプの人のことを描いて重層的なのに、上下、とりわけ上の世代について、ステレオタイプの見方になっちゃうんだろうねえ。