小鷹信光『翻訳という仕事』

小鷹さんが亡くなったので、ふと思い立って、若い頃バイブルのように繰り返し読んだ小鷹さんの『翻訳という仕事』を引っ張り出してみた。ジャパンタイムズから出たこの本は、初版が1991年。わたしが買ったのは、1992年10月20日刊行の第3刷だった。

翻訳という仕事

翻訳という仕事

20代の終わり、学校の先生をやめて本気で翻訳家を目指そうと決心した頃に、購入したと思われる。わたしはめったに本に線を引くことをしないのだが、なぜかこの本には赤いボールペンで何箇所か線が引いてある。いま引いてある箇所を見ると、笑ってしまう。ものすごく現実的なところにばかり、線が引いてあるのだ。小鷹さんの1日の仕事の仕方とか、どうやって編集者と知り合って気に入ってもらって仕事をもらうかとか、駆け出しの頃の翻訳家の年収(!)とか。


現在よりもだいぶ業界の状況はよかったと思うけど、それでも翻訳家で食べていくのは相当大変だ、という見通しを、小鷹さんは書いている。好きじゃなければ続かない、とも書いている。当時それを読んで、だいじょうぶ、がんばる、と思ったものだった。「わたしはたんぽぽ食べても生きていける」と豪語していたものだった。でも実際に、独り身で収入がない、という生活をしてみたら、予想以上につらかった。洗濯機なしでがんばっていたら、みかねた妹が「これで洗濯機を買って」とお金をくれたりした。未払いだった雑誌の原稿料10万円をもらうために、月に1回出版社に電話をかけ続けたこともあった。最低限の食費のほかに、家賃は確実に出ていくし、翻訳学校の授業料もある。20代の終わりだから「駆け込み婚」の友達も多くて、お祝儀が捻出できず仮病を使って欠席しようかと真剣に考えたりもした(もちろん、実行に移したことはないよ)。


もちろん、翻訳以外の仕事、アルバイトなどもしていたけれど、翻訳の仕事というのは、小鷹さんも書いているように、予想以上に肉体労働なのだ。物理的に1日数時間、パソコンの前に座って文章を作り出さなくちゃいけない。食べるためのアルバイトで忙しくなって、翻訳をする時間がとれなくなると本末転倒なので、なるべく単純作業のアルバイトを選んだほうがいいんだけど、単純作業は時給が安い。時給が高めのやりがいのあるアルバイトを始めてしまうと、翻訳のほうがおろそかになる。翻訳の勉強をはじめてからいま勤めている会社に就職するまでの10年は、ずっとこの二つの間で揺れ続けていたと記憶している。


でも結局、わたしが翻訳の仕事を続けられなくなったのは、経済的な理由よりも、翻訳という作業の孤独さのせいだったような気がする。朝から晩まで、誰とも口をきかず、一人黙々とパソコンに向かう。これが、365日、ほぼ毎日続く。作業をしていて何かおもしろい発見があったり、誰かに相談したいことが出てきたり、息抜きでおしゃべりしたいと思っても、だれも話し相手がいないのだ。就職する前の5年ほどは、アルバイトで編集プロダクションに勤めていて、ここでは一緒に働く仲間がいて、忙しかったし、身分は不安定だったけど、ずいぶんこき使われたなという印象もあるけれど、人といっしょに働くのって楽しいなと思った。自分は「一人黙々と」より「みんなでわいわい」のほうが向いてるかなと思いはじめた矢先に、いまの会社の正社員の募集があって、人生最大の決断(のひとつ)をして就職した、というわけだ。


めぐりめぐって12年ぶりに、今度は編集者として翻訳業界に戻ってきた。小鷹さんの本に一生懸命赤い線を引っ張っていた頃の自分のことを思い出すと、なんだか滑稽で、少し物悲しい。わたしがこの本をバイブルのように思っていたのは、きわめてクールに現実を直視していたことと、その一方で翻訳という仕事に対する情熱と使命感にあふれていたためだろう。当時もいまも、すぐにでも翻訳家になれるようなキャッチコピーの本や、お手軽な学習本はたくさんあるだろうけど、この本は特別に優れた本だったと思う。


そうだー、読み終わった『『罪と罰』を読まない」の感想を書かなくちゃ、ねー。感想書きにくい本なんだよねー。いま、遅れ馳せながらウェルベック服従』を読み始めた。前に『素粒子」を読み始めてとちゅうで挫折しちゃったんだけど、『服従』は最後まで読めそうな感じ。これまでのところなかなかおもしろい。あと、後輩が面白かったと言ってたので、某若手社会学者のデビュー作が文庫になっていたので電車の中用で読み始めたんだけど、こちらは私的にはいまいち。いまの若者と比較される1980年頃の若者像が、あまりに類型的でいらっとする。世代論ってどうして、自分の世代はいろんなタイプの人のことを描いて重層的なのに、上下、とりわけ上の世代について、ステレオタイプの見方になっちゃうんだろうねえ。