「批評の前にちゃんと鑑賞をやる」

これは、仕事に役立つかなあ、と思って、隣の部屋から運び出した本の中の一冊、
福間健二『詩は生きている』の帯の文句。

詩は生きている (五柳叢書)

詩は生きている (五柳叢書)


あとがきの一節。
  どれだけの範囲で言えることかわからないが、ぼくや身近にいる世代の詩人たちは、
  だいたい鑑賞というものに偏見がある。
  おそらく、詩に関心をもった初期に、鑑賞ではなく創造的な批評をやれというテーゼにつかまって、
  それ以来、鑑賞が苦手なのである。ついでにいうと、ただの随筆というのも書けない。
  そういう苦手科目もなんとか克服しようという気持ちが、ぼくにはある。
  批評の前にちゃんと鑑賞をやる。できるだけ随筆的に書く。
  (中略)
  いま、引用部分の確認のために、取り上げた詩集の大半を机の上につみかさねている。
  まさにそこに「詩は生きている」と感じさせる山。
  書物としてどこか柔らかい表情の、色とりどりの一冊一冊がいとおしい。
  世紀の変わり目をはさむ大変な時期に、それぞれに出会ったことで自分がいかに支えられ、励まされたかを思うと、
  いくら感謝しても感謝したりない気持ちになる。(309ページ)


鑑賞と批評は、当然ながら相反するものではないだろう。
ここまでが鑑賞、ここからが批評、と、きっちり分けられるものでもないはずだ。
著者はもちろん、批評についての学識もしっかりと持ったうえで、このような本を書き、このようなあとがきを記している。
それが、カッコイイと思うのだ。


ある程度年を重ねてから、詩や文学について語るのは、かなり恥ずかしいものだ。
だから多くの場合、冗談めかしたり、皮肉をまぜたりしながら小出しにしていて、安心すると、ぽろりと本音が出たりするように思う。
先日、どういう流れからだったか、ある50代の方が、
「文学を読むことの究極の終着点は、人生をいかに生きるかってことなんじゃないか」といったあと、
「……などという青臭いことを考えているわけだ」と照れて笑った。
その人は小説や詩ももちろん読むけれども、哲学や思想、文芸評論からイマドキの新書まで幅広く、そして深く読んでいる読書人だ。
加えて、話すことばは常に皮肉やジョークに満ちていて、時折、どこまで本気で言っているのかわからなくなるほどだ。
でも、そのときのことばは、あまりにストレートで、10代の少年のようで、
上の福間健二氏と同じく、カッコイイと思った。


今年、60代のさる方からいただいた年賀状の文面の一部。
「考えてみると活字が好きでない人はあの本屋の棚を宝庫と感じることが無いママに、ホントに生きていけるのでしょうか。ずっと。」
この人もまた、めちゃくちゃカッコイイのだ。
会社でコーヒーを飲みながらおしゃべりをしていると、ただのオジサンみたいに見えるのだけれど、
自分の仕事に対する執念、こだわり方、きびしさにふれるたび、
ああ、やっぱりこの人はタダモノじゃない、と思う。


わたしが通っていた翻訳学校の校長もまた、同じようにカッコイイ男だ。
もうずいぶん会っていないけれど、翻訳家時代にはいっしょにたくさんの仕事をして、ずいぶん苦労もした。
でも、当時、時代の最先端をいっているように見える彼が、滑稽なくらいピュアに出版文化を愛していることがわかっていたから、
わたしはずっと彼についていったし、どんなときも信じていた。
翻訳の仕事をはなれてしまったいまは、彼の役に立ちようもないけれど、
彼が大切に思っている出版文化を、わたしなりに守ろうとしてがんばっている。


ちなみに、この人たちの一人称は、みんな、「ぼく」だ。
頭脳明晰、才能にあふれ、誇りと自信に満ちた、魅力的な男たち。
なのに、彼らはみな、迷っている。文学の、あるいは人生の森の中で、戸惑い、躊躇している「ぼく」たち。
わたしはそういう「ぼく」にめっぽう弱い。
本を読むことで、本にかかわる仕事をすることで、彼らとめぐりあえた。なんとありがたいことか。


……ここまで読み返してみると、会ったこともない詩人と、自分の知人とを、いっしょくたに語っていておかしな文章だ。
わたしはこういうことがよくあって、文章を読んだだけで、書き手の男の姿を勝手に思い描いて、惚れてしまうのだ。
古くは目黒考二さんがそうで、神保町の喫茶店での偶然の出会いを夢見て、胸ときめかしたものだ。
(その後、雑誌で写真を見て、ずいぶんイメージが違ったけれど、だからといって熱が冷めるというわけでもなかった。)
最近はネットとかで調べるとすぐ写真が出てくるから、調べてみてもいいんだけど、
まあ、この先会うこともないだろうし、とりあえず文章から思い描いた自分のイメージをこわさないためにも、
調べるのは控えることにしよう。