大江健三郎、柴田元幸、「英語青年」

今朝(2008年12月16日)の朝日新聞文化面は、なかなか意味深長だった。
右半分に大きく、大江健三郎の連載「定義集」。
左半分に柴田元幸訳のサリンジャーについての記事。
そして、左下に小さく、「『英語青年』休刊へ」という見出しの記事。


大江健三郎は「読者を失っている」純文学が力を取り戻すためには、
「評伝的に人を見るという力」が必要だ、と説く。

    ほとんど常に、個人的なきっかけで自分としての「文学」に出会った読み手が、
    その詩人、作家、思想家を読み続ければ、かれは「読む人」になったのであり、
    さらに考える人、そして受け止めたものを自分で表現する人になります。
    そうやって小説を書き始める人もいますが、
    私はまず自分の発見した本についてノートを書く青年でした。


大江は、19歳のときに出会ったウィリアム・ブレイクについて、
「やっとその人間を確かめたと思った」のは、
ノースロップ・フライの評伝を読んだことからだ、と書いている。
ノースロップ・フライ……遠い記憶の中をさぐれば、
ノーテンキ不良女子大生だったわたしでさえ、その批評家の名に聞き覚えがある。
わたしが大学生だった80年代、大学の英米文学科はまだまだ元気だった。
担当教官は卒論指導の一環で、
「とりあえず神保町の北沢書店というところに行ってみなさい」と言って地図を書いてくれた。
初めて北沢に入ったときの緊張感は、今も忘れられない。
学生が出入りできる研究室にはOEDが1セット並んでいる専用の机があって、
時折順番待ちをすることもあった。
そしてマガジンラックには必ず、「NEW YORKER」と「英語青年」があった。
(あの風景は、「英米文学科」なきあとも変わらないのだろうか……)


柴田元幸はおそらく、今日本で一番有名なアメリカ文学の翻訳家だろう。
いや、日本一有名な翻訳家と言ってもいいかもしれない。
今日の新聞には、珍しく顔写真を載せているのだが、
枠の大きさがちょうど大江健三郎の写真と同じで、
なんというか、「新旧対決」っぽく見えなくもない。
この記事にある柴田元幸訳の「ナイン・ストーリーズ」は、
実は個人的には「いまいち」だったんだけど、
それはともかく、文学作品の翻訳が話題になることはとてもうれしい。
「柴田さんが訳しているものは全部読む」という読者もいるというから、
柴田元幸責任編集」をうたった文芸誌を出すというのは、
なかなか斬新でおもしろい試みだと思う。
今年創刊のこの雑誌「モンキービジネス」を発行しているのは、
ヴィレッジ・ブックスという若々しい出版社。
創刊号にある「モンキービジネス宣言(の・ようなもの)」で柴田さんは、
「『こいつら、何やってんのかねえ』くらいに思われるのが一番妥当かなという気がしないでもない。
 『これって、ただの悪ふざけじゃないの』でもいい。」
と書いている。
柴田さんらしい、肩の力の抜き方だなあ、と思う。
こんな感じでゆるゆると、長く続いてほしいと切に願う。



「英語青年」は、大江健三郎柴田元幸も、かつて寄稿したことのある雑誌だ。
新聞の記事は、「110年の歴史に幕」とあっさり書いているけれど、
それって大変なことなんじゃないだろうか。
同じ紙面に並んだ大江さんも柴田さんも、びっくりしてるんじゃないだろうか。
長年にわたる「英語青年」愛読者であるわたしの大学時代の担当教官も、
きっと衝撃を受けているにちがいない。
あるのが当たり前、なくなるはずはない、とたかをくくっていると、
気づけば大切なものは、みんななくなってしまうのかもしれない。


ふと気づくと、「国語」の教科書に、文学作品が一つも載っていなかった……。
そんな時代が、そう遠くない将来、やって来るような気がする。
時代の流れにさからって、必死に守ろうとしても、守りきれないこともある。
どうしたらいいんだろう、ね?