「かわいそうじゃない人」初日

予定では早起きしてお弁当を作り、くるくると家事をこなす、はずだったのだけれど、
まずスタートからつまずき、寝坊してあたふたとお弁当を作る。
部屋の中はぐちゃぐちゃのまま、外出。
明日の夜の着付教室の振り替え授業があるのだ。


今日の課題は「小紋に二重太鼓」。
月曜の午前という時間帯のせいか、先生も生徒ものんびりしていて、でも元気いっぱいで楽しそうで、
とてもいいカンジだ。
着物の着方はともかくとして、下着から着物までの手順は、とりあえずクリア。
着物→帯を2回繰り返して、今日の授業はおしまい。
1回目よりは2回目のほうが、ずいぶんうまく着られたような気がする。
いっしょに授業を受けていた方は、人に留袖を着せる、という課題をやっていたのだけれど、
話の仕方とか物腰とか、とても素敵な人だった。


ほんとうは吉祥寺でランチを食べたいところだけれど、
家でお弁当が待っているので、がまん。
南口の本屋をちょこっとのぞき(年配の女性が店番をしていたけれど、この人が詩人さんかしら??)
バスで帰宅。
お弁当を食べて、キッチンを片付け、メールの返事を書いたりしているうちに、
あっという間に夕方。
休みの日はどうしてこんなに時間が経つのが早いんだろう。


あわてて夕飯の買い物へ。
近所に「さえき」という食品を中心にしたスーパーがあって、
休みの日はだいたいここで買い物をする。
平日は久我山駅前のサミットで、わちゃわちゃわちゃっと買い物をするので、
「さえき」に買い物に行くだけで、休みの気分を満喫できるのだ。
「さえき」の特徴は、カップルの買い物客がものすごく多いこと。
もしかしたら最近の近郊のスーパーは、みんなそうなのかもしれないけれど、
はじめて「さえき」に行ったときは、ちょっとびっくりした。
お野菜やお肉を買うのに真剣に話し合っているカップルって、いいなあ、と思う。
わたしには、休日にスーパーでいっしょに食品を買っているカップルは仲がいいはずだ、という思い込みがある。
もちろん、世の中、そんなに単純じゃないはずだけど。


今日の読了本はこの1冊。

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

やっぱりこの二人は頭がいいし、センスがいい。
わたしがふだんからぐちゃぐちゃ考えていることについて、
「こんなふうに考えたらいいよ」という、一つの方向を示してくれる。
内容は文芸誌に掲載されたものということもあって、
とおりいっぺんでない、かなりつっこんだもので読み応えがあった。
が、逆に言うと、アメリカ文学についてある程度知っていないと、
何のことやらちんぷんかんぷんで、そういう意味では結構、読者を選ぶ本なんじゃないかな、と思った。


それから、このお二人(とくに柴田さん)については、常日頃から、
ほんとうにすごいなあ、頭がいい人だなあ、と尊敬しているのだけれど、
柴田さんの推薦する本や、柴田さんの本との付き合い方に、共感するかどうか、というと、
?なのだ。
別に比較してどうということもないのだけれど、
たとえば野崎さんが文学について語るのを聞いていると、
柴田さんのようにてきぱきしていないんだけど、でもなんというか、もっとウェットな感じ、
作品への「愛」みたいなのが伝わってきて、ノックアウトされてしまう。
この本にも書いてあるように、柴田元幸という人は、「全然文学青年ではなかった」(56ページ)そうで、
大学で専門に勉強するまで、翻訳小説はほとんど読まなかったという。
(もちろん、O・ヘンリーやスタインベックヘミングウェイくらいは読んだと言っているから、
 いまの普通の高校生や大学生よりは読んでいたと思われるが……)
一方、野崎さんは、中学・高校時代からとにかく本が好きで、翻訳小説もたくさん読んで、
その体験をひきずって今がある、というようなことを以前どこかで話していた。
あんまり単純に分けてしまってはいけないが、柴田さんの読み方が「知的」で、野崎さんの読み方が「情的」な印象が強いのは、
このあたりに原因があるような気がする。


うまく書けないのだけれど、この本の159ページ〜164ページ「じゃあ『文学』を読むと何がわかるのか?」
という部分に、共感するところと、違和感をおぼえるところがあって、3回くらい読み返した。
「小説というものはそもそも思想ではなくて文章で読ませるもの」(柴田)とか、
「『何を書くか』よりも『どう書くか』『どういう声で書くか』」(柴田)とかいうのは、まったくそのとおりだと思うし、
学校教育で「この小説は何を言わんとしているか」ばかりやってもだめだ、というのにも共感する。
でも、だからといって、文学作品を読むことで人生や世界について考えるってことを、
こんなに否定しなくてもいいんじゃないかなあ、と思ったりもする。
柴田さんの言う「ヴォイス」に耳を傾けて読むということと、人生の何たるかを学ぼうとして読むということは、
別に矛盾する行動じゃないような気がするんだけど……。


そういえば、柴田さんは、今度の村上春樹の新作について、どんなふうに思っているんだろう。
柴田さんの「春樹論」って、あまり見かけないような気がするけど(いや、わたしが無知なだけかもしれないが)、
でもたとえばこの本で、柴田さんは、「(村上春樹は)悪と戦おう、と言っているんじゃないでしょうか。
世界なり自分なりが何か邪悪なものに損なわれようとしている、という思いはずっとあると思う。
その邪悪なものが外にあるのか内にあるのかよくわからないということもポイントだと思いますが」(81ページ)
と語っていて、ほお、と思った。
で、この「悪と戦おう」っていうのは、思想というか、いわゆるテーマ、という感じがするんだけど、
そのことと、さっきの「ヴォイス」の話とは、やっぱり矛盾しないように思う。
とういうか、むしろ、互いに補完しあって、その小説の魅力になっているんじゃないかな。


などとぐちゃぐちゃ考えているうちに、「かわいそうじゃない人」の初日の夜は更けて、
もう寝ないと明日も寝坊してしまう!! おやすみなさい。