北方「水滸伝」読了!

水滸伝 19 旌旗の章

水滸伝 19 旌旗の章

ついに、読了!!
長かった。とくに、文庫本が未刊行のために途中から単行本に切り替えて以降、
電車の中で読むには本は重いし、好きな登場人物がどんどん戦死していくし……。
歴史的に考えて、この梁山泊の闘いは敗北に終わるのだ、ということに気づいたのが、
なんと、12巻くらいまで進んでから。
それに気づいてからは、何しろもうすっかり「身内」気分になっている梁山泊のおとこたちが、
おそらく全員、死んでしまうのだということを思い、読み進めるのがつらくなってしまった。
17巻あたりを読んでいるときに、書店に北方謙三『楊令伝』が並んでいるのを見て、
「おおっ、少なくとも楊令は生き残るのね……」と思い、なんとか気を取り直した次第。


同居人に、「で、結局のところ、その本おもしろいの?」と聞かれ、
うぐっ、となった。正直言って、後半は惰性というか、「彼らの終わりを見届けずには……」という気持ちが強かった。
でも、「チャングムの誓い」のときもそうだったんだけど、長編小説の醍醐味っていうか、
来る日も来る日も、暇さえあればその本を読んでいるから、
そのうちに、一日のうち数時間しか顔を合わせない家族や、
電車に乗って一定の切り取られた時間をすごす会社なんかよりずっと、
身近な存在になってしまい、彼らとともにその時代・空間を生きているような感じを満喫できたのは間違いない。


ところで、わたしが北方水滸伝を読み始めたと話したところ、会社の先輩が、
「漫画も質の高いものが出ているよ」と薦めてくれた。
「ふーん」とあいまいに返事をしたけれど、わたしはきっと漫画は読まないだろうなあと思った。
考えてみるとわたしは漫画をほとんど読まない。
子どもの頃から、「絵本」というのもあまり好きではなかった。
小説の映画化作品というのも、めったに観ない。
これは、わたしがかなり自分のイメージに固執する、思い込みの激しい性格だということだろう。
イメージのずれを楽しむ、というような余裕は、正直言って、ない。
わたしにはわたしの林沖のイメージがあり、宋江のイメージがあり、武松のイメージがある。
それは、絶対にこわされたくないのだ。
北方水滸伝のいちばんすごいところは、ことばによる表現だけで、
100人を越える登場人物のひとりひとりをかなりはっきりと視覚化させているところだと思う。
だから、わたしのようなボケ頭でも、登場人物のことを忘れることはない。
文庫の冒頭、単行本には挟み込んである「人物説明」みたいなものを参照することは、一度もなかった。
(一方、併載されている地図は、かなり頻繁に見た。)


小学生くらいの子ども向けの本や教科書には、多くの場合、子どもが喜びそうな挿絵が入っているけれど、
思いきって「なし」にしてみて、文字による表現だけでイメージを広げるということが、
子ども相手でどのくらいまで可能なのか、考えてみたいと思う。
子どもの頃、母が枕元で本を読んでくれたけれど、そのときは絵も字もみていなくて、
ふとんの中で目をつぶり、母の声がつむぎだす物語の世界にどっぷりとひたっていた。
そうするうちにいつの間にか眠ってしまい、母がいつ読むのをやめたのか、部屋を出ていったのかわからない。
幸せな子ども時代だった。
少し大きくなって、字が読めるようになると、母の代わりに四つ年下の妹に本を読んであげた。
でも自分もまだ子どもだから、妹に読んであげているうちに自分も眠くなってしまい、
二段ベッドの下の段で、ふたりいっしょに寝入ってしまったことも、たびたびあった。