そろそろ復活しないと

このままでは、ブログ自然消滅してしまいそうだ。何をやっても長続きしないわたしが、何だかんだでもう5年以上も続けてきたのだから、ちょっと無理をしてでも復活しなくては、と思う。
なんと9月は1日も更新しなかった。ブログって、少し日にちがあくと、書き方を忘れてしまう。仕事柄、文章を書く機会は多いのだけれど、ほとんどがメールや手紙だから、特定の相手を意識しない「公開の日記」的な位置づけのブログって、案外、書き方にコツがいるような気がする。一人語りのような、ぼんやりと誰か読者に向かって話しかけているような。
でも、何度も書いているように、こういうときは初心に戻って、このブログは自分のストレス解消のために書いてるんだから、他人の目は気にせず、そのとき思いついたことを、ぶわわわーっと書いて、読んだ本のことを忘れないようにメモする、ってくらいの軽い気持ちで、とりえず続けていこう。


と、書いてみて思ったんだけど、もしかして、「ストレス解消のためにブログを書く」ってことが必要ないくらいに、いま、ストレスレスな生活を送ってるってことかしら。
以前は仕事上のストレスがたまりにたまって、ばぁーん!と爆発しそうな心をかかえて日々を過ごしていた。愚痴はなるべく書かないようにしよう、と思うのだけれど書かずにはいられなくて、ばばばっと書いて更新しちゃったあとで、後悔して非公開のミクシィのページに移したりしてた。でもいまは、仕事上はほんとにストレスがない。もちろん、仕事が忙しい! とか、原稿が思うようにとれない! とか、予算が足りない! とか、いろいろ困ったことがないわけではないんだけど、ストレスになるような閉塞感がないんだな。これは思うに、いまやっている仕事の内容が自分の興味の方向とぴったり合っている、ということと、職場の人間関係がとてもうまくいっている(と、少なくともわたしは思ってる)ということのおかげだなんだろう。


「楊令伝」は3巻に突入したところで止まっている。まだ人物紹介っぽい感じで、「水滸伝」の内容のおさらいみたいな要素が強いので、なかなかストーリーに乗り切れていない。「水滸伝」を読んでたときはあんなに好きだった「楊令」くんなのに、いまはまだ、何考えてるかわかんない、という感じ。かといって、それを知りたいからぜひ先を読みたい、ってほどには、ストーリー展開にわくわく感がないんだよなー。まあ、わたしの「読書不調」のせいかもしれないけど。


なので、「楊令伝」はちょっと中断して、いま電車の中で読んでるのは、阿部公彦『文学を凝視する』という本。

文学を〈凝視する〉

文学を〈凝視する〉

雑誌連載中から読んでいたのだけれど、こうやってまとまって読み返してみると、また違う印象がわいてくる。電車の中で読むにはちょっと(内容が)ハードすぎる本だけど、今朝は集中しすぎてあやうく目的地でおり損なうところだった。案外すいすいと読めちゃうかも。


このあとはジェイムズ「ねじの回転」の新訳を読む予定。ひさびさの古典新訳文庫だ。

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)

「ねじの回転」にはさまっていたパンフレットによれば、古典新約文庫は、いまや創刊6周年、だそう。はじめのころ、「全冊読破!」とか言って、苦手な哲学書なども全部買って、砂をかむような思いで読んでいたっけ。なつかしー。個人的には「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」のドストエフスキー作品を、すべて亀山訳で読めたってことは、古典新訳文庫のおかげなので、とてもありがたいことだと思っている。そうだ、「闇の奥」も読まなくちゃ。古典新訳文庫は翻訳家の選び方も素晴らしく、「ねじの回転」は土屋政雄、「闇の奥」は黒原敏行、英米文学の名作古典なのに、大学のエライ先生とかじゃなくて、いわゆる商業翻訳家(の中でとびきり腕のいい方々)が訳してるってところがすてきだ。(もちろん、大学の先生じゃだめ、ってわけじゃなくて、基本的にフリーランスでがんばってる商業翻訳家を応援したい気持ちが強いってことです。)


翻訳家といえば、「早稲田文学」の最新号の特集は、「翻訳という未来」というタイトルで、いまをときめく各国語の翻訳家12人による座談会が載っていた。何気なく名前を見たら、そうそうたるメンバーの中に、わたしの翻訳学校時代の仲間が入っていて、わあ、すごいなあ、と思って、アマゾンでぷちっと購入してしまった。「早稲田文学」って、たぶん買ったのはじめてだ。

それでは今日はこれくらいで。読み返すと消したくなるような気がするので、あえて今日は読み返すことはせず、このまま「保存する」ボタンを押しちゃおうっと。