阿部公彦『英詩のわかり方』

英詩のわかり方

英詩のわかり方

読了。
おもしろかった。「英詩のわかり方」というタイトルで、
英詩を対訳で載せて解説するというスタイルをとっているので、
明らかに英詩の入門書なのだけれど、
わたしは詩の入門書、文学の入門書として読んだ。


たとえば、ロマン派の詩をとりあげた「英詩は嬉しい」の章。
詩を読んで、「ぴんと来ない」と思ったとき、どうすればよいかを、
著者はきわめて具体的に、ひとつひとつの単語やフレーズのしかけに注目させて、
懇切丁寧に説明していく。
人を食ったような「ですます調」の文章に説得力を与えているのは、
おそらく例示の的確さと豊富さだろう。
読者はどこかで「なるほど」感が得られるし、
もし得られなくても、「別に心配しなくてもいいよ、ほかにも方法はあるからね〜」というようなメッセージが漂う。


でも、何となく、クールというか、嫌味っぽいところもあって、
ワーズワースのNow I am free という一行について書かれた次の文章を読んだとき、
思わず、ゴメンナサイ、とつぶやいてしまった。
   Now と言って、自分自身の存在する時の一点を堂々と特別視してはばからない語り手は、
   たしかに I am free と宣言してもおかしくない。
   つまり自分についてI am free という認識を持ってしまうだけの
   すがすがしい楽観性を持つような人なんだろうなあ、と思ってしまう。
   I am free とは、実際にfreeであるかどうかにかかわらず、
   こうしてNowとか、I am freeと言えてしまう、その能力のことなのかもしれません。
   (32ページ)
この「すがすがしい楽観性」って、やっぱり嫌味、だろうなあ。


第2章の「なぜ英詩は声に出して読んではいけないのか?」は、国語教育の関係者にぜひ読んでもらいたい。
詩を声に出して読むことの価値を認めつつも、著者は、
「声に出すことで、私たちは詩の、声に出される部分しか読まなくなるのではないか。」(60ページ)と危惧する。
活字は話し言葉にくらべて不自由なメディアだ、として、その不自由さからくる、活字独特の喜びがある、と著者は言う。
そのあとの、「たとえば」がすごい。
   たとえば、密やかさ。たとえば、落ち着き、鎮静。
   たとえば、ふたりだけで話し合うような親しい感覚。
   たとえば、短く颯爽と終わる断絶感。あるいは余韻。あるいは会話のあとの静寂。
   たとえば、感情を乗り越えて自分自身を振り返ることで得られる、清々しいほどの虚無感。
   たとえば、未開発のもの、無垢なもの、幼児的なものへの立ち返りの感覚。
   たとえば、いっそ、何も語らない、という沈黙。
   語ることの不可能を思い切り背負うことで、はっと開ける道。
   (61ページ)
カッコイイなあ〜。(……と、きわめてミーハーな感想。)


……なんだか特殊なところばかりを引用してしまったけれども、
ふつうの英詩の入門書として、もちろん読める。
シェイクスピアワーズワースホイットマンシェリー、プラスとヒューズ、ディキンソン、
ロレンス、ヒーニー、ミルトン、ラーキン、トマス、イエイツ、スティーヴンス、エリオット、
と、ひととおり、英詩の基礎基本は押さえました、という感じのラインナップで、
英語力に自信のない私でも、一応、読める。(対訳ついてるし)


それで、今日は会社のミーティングで、
①国語における基礎・基本とは何か。そのことと「思考力」との関係は?
②国語科とは何を学ぶところか。
というテーマで3分間スピーチをさせられたのだけれども、
私はこの本を読了した勢いで、
「国語における基礎・基本とは、詩を読み書きすること」などと口走り、
またしても上司の評価を下げてしまったのだった。ああ。