教育をめぐって

内田樹下流志向』読了。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

わたしが言いたかったことが、全部書いてあった。
前の項目の最後に書いた問い、「それが、いったい、何の役に立つの?」
この問いこそが、教育をだめにしている、というオハナシ。


引用したいところだらけで、はじめるときりがないので、
「学ぶ」ということについて、直接的に言及しているところを二箇所、引用する。
  

  学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程です。
  学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達する。そういうダイナミックなプロセスです。
  学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ、学ぶ意味がない。(149〜150ページ)


  ……、自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ということが実は学びの本質だからです。(151ページ)


すぐに役立つこと、現在の自分が「わかる」こと以外は、知りたくない、やりたくない。
今の子どもたちが(というより、日本の社会全体が)そういう方向に向かっているということは、
残念ながら認めざるを得ないようだ。そしてそうした社会のニーズにこたえるべく、
教育は、「すぐに役立つ」こと、「成果が目に見える」こと、「わかりやすく提示する」ことに、躍起になっているように見える。


「この作品を読むことで、どういう力がつくんですか。」
わたしの今の職場では、思っていた以上に頻繁に、この問いかけがなされる。
たしかに、小説や詩などの文学作品を読むことが、人生において「すぐに役立つ」とは思えない。
たとえば「登場人物の心の移り変わりを読み取る」という力をつけたいと考えたとして、
「はい! あなたは、登場人物の心の移り変わりを読み取れるようになりました!」などという瞬間がおとずれるはずもない。
「わかりやすく」を追求していけば、行間を読むとか、含蓄を味わうなどということはなくなって、
「わたしは悲しかった」「彼はうれしかった」式の、ストレートな文章ばかりがはびこるようになる。


……でも、そう悲観したものでもない。
名古屋の公立高校で国語を教えるY先生が、「教室で小説を読む」ということについて書いている文章があって、
「指導者の姿勢としては、小説をむしろ要約不可能な何かとして感得させるような方向に導いてもらいたいと考える」と書いている。 
この先生が作成したテスト問題を見た。「つけたい力」や「評価規準」はどこにも書いていないけれども、
先生が何をしたいのか、子どもたちと何を語りたいのか、浮かび上がってくるような気がした。
形式はごくありふれた、普通のペーパーテストだ。
でも、選択肢問題の選択肢の立て方、記述式問題の問いの立て方など、
ちょっとしたことばの使い方、選び方が、傑出している。
何気なく作っているけれど、これははっきりと、「ことばの重み」を意識している人の仕事だ。
ことばや文学を学ぶこと、教えることを、あきらめちゃいけないなと、思い直してみたりして。