フランス小説とか同窓会とか

昨日から新潟の咲花温泉に行ってきた。電車の中と宿で、延々と本を読み続け、2冊読了。たまたま、2冊ともフランス小説だった。1冊は古典新訳文庫のSF冒険小説『地底旅行』、もう1冊は海外ミステリの話題作『その女アレックス』。

地底旅行 (光文社古典新訳文庫)

地底旅行 (光文社古典新訳文庫)

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

ヴェルヌは子どもの頃に読んだ「十五少年漂流記」がめちゃくちゃ好きだったけど、大人になってからは全く読んでいなくて、先日たまたま見ていた世界文学の名作リストの中に、『地底旅行』が入っていたので読んでみた。一方、『その女アレックス』は、ツイッターなどでやたらと絶賛されてるなあと思ってはいたものの、つらそうな話なので購入には至らずにいたもの。それなのに買ってしまったのは、新潟でふらっと入った書店で、海外文学の単行本が13冊しか置いてなかったのに衝撃を受け、ここで文庫のミステリでもいいから海外小説を買って、わずかでも抵抗というか応援というか、ささやかな意思表示をしよう、と思ったから。


で、読後の感想は、どちらも「暇つぶし」としての読書の醍醐味を、十二分に味わわせてくれました、というところ。ヴェルヌは古典らしく、地底旅行の大冒険が始まるまでが長い、長い。そして、冒険が始まってからも、科学とも偽科学とも判断のつかないような説明・解説が、かなり延々と続く。これを退屈と感じてしまったら、この小説は読み通せないと思うのだけれど、わたしはかなり面白かった。なんといっても登場人物の3人(語り手、叔父さん、ハンス)が魅力的で、表現がユーモラス。SFだからあり得ないようなことが次々起こるし、正直、「けっ、子供だまし!」と思うこともあったけど、全体として読み終わったときには、「あー、面白かった!」と爽やかに言い放てるような読後感だった。対照的に、『その女アレックス』は、読んでいる間はもう、止まらない。というか、途中では絶対にやめられないような作りになっている。ただし、後味は決してよくない。たくさん人が死ぬし、つらい話がいっぱい出てくる。ヴェルヌのSFと同様、作り話だから、と割り切って、アレックスに感情移入しないように注意して読んだほうがいいかも(ジャンル・フィクションの読者は、あまり感情移入型の読書はしないと思うけど)。


というわけで、どちらも高評価なのだけれど、読書って不思議なもので、そのときの読む側の精神状態にものすごく影響を受けるんだよね。旅行中だから、こういうジャンルフィクションを楽しく読む、ってことで、それでよかったと思うんだけど、実はいまのわたしの気分は、もっと私小説的というか、日本の純文学的な世界に寄ってる感じなのだった。なぜなら、つい先日、6年ぶりに高校の大同窓会っていうのがあって、卒業以来、とか、22年ぶり、とかで再会した人たちがいて、とくに今回は、宮本輝の名作「錦繍」の冒頭的な再会があってちょっと混乱というか、動揺というか、そのようなものを抱えたままこの数日を過ごしてる、という事情があるから。(もちろん、「錦繍」のような劇的な別れでも、劇的な再会でもなく、ごくありふれた、巷にあふれている別れと再会である。念のため。)


同窓会というのは、何かを変えるために行くんじゃなくて、現在の幸福や価値観を確認するために行くんだな、と思う。6年前の同窓会のときにも、そのような感想をこのブログで書いた。
http://d.hatena.ne.jp/mari777/20081230
そして今年もまた、仕事や家庭の幸福を友人たちと語り合いながら、羨ましいとか妬ましいとか思うこともなく、少しだけ人疲れして自分が選んだいまの生活に帰ってきた。会社のメールをチェックして、年末に頼んだ原稿を早速送ってくれた著者にお礼のメールを書き、同居人からマルカム・カウリーとPerfumeの話を聞き、同窓会の報告をする。温泉旅行の荷物には、読めもしないのに本を3冊入れて、旅先でさらに2冊購入してしまう。このような自分の日常は、さまざまなターニングポイントで、自分自身で考え、自分自身で選び取ってきたものだ。


だから、なんの迷いもない、悔いもない、はずなんだけど、なんとなくざわざわするんだよね。あのころから今までに、自分に起こった出来事を、いいことも悪いことも、ぜんぶ聞いてもらいたいような感じ。自分の感情のマイナス部分、ドロドロした部分も、ぜんぶさらけだしたいような感じ。それでふと、「錦繍」という小説の意味がわかったような気がした。かつてこの小説を読んだときは、この二人はまだお互いに好きなんじゃないかとか、なぜもう一度会おうとしないのかとか思ったのだけれど、そうじゃないんだな。この小説は書簡体小説である必要があったし、ラストはこのように描かれる必要があった。あの往復書簡の中に綴られたのは、相手への思いではなくあくまで自分語りだったということに、突然思い当たってしまったのだ。

錦繍(きんしゅう) (新潮文庫)

錦繍(きんしゅう) (新潮文庫)


錦繍』はわたしにとって、オールタイムベスト10に入るだろう小説。今年は、もしかしたらオールタイムベストに入るんじゃないか、と思う小説との出会いがあった。年末恒例の読了本ベストを明日書くつもりなので、この小説のことは、そのときに。

また一ヶ月以上あいてしまった

仕事はそれほど忙しいわけでもないんだけど、どうにもブログ更新が滞りがち。やっぱりツイッターフェイスブックの影響かな。それと、仕事とは関係のないことだけを書こう、と思うと、読んだ本や講演会の感想なんかも微妙に仕事がらみだったりして、結局、書けなくなっちゃうんだよね。


以前の仕事みたいに死にそうにはならなかったけど、ここ2週間ほどは長時間残業&休日出勤の日々を送った。ちょっとひと段落したので、代休をとったり、早めに帰宅したりしている。この一ヶ月の読了本は少ないけど、なかなか充実していた。今年のベスト5、もしかしたら、オールタイムベスト10くらいに入っちゃうかも、という名作があった。

ピグマリオン (光文社古典新訳文庫)

ピグマリオン (光文社古典新訳文庫)

ストーナー

ストーナー


なんといっても、『ストーナー』が素晴らしかった。東江一紀さんが最後に取り組んだ翻訳、という悲しく壮絶なエピソードを脇においても、作品自体が静かな迫力に満ちて、読み終わって「いい小説を読んだ」と実感する。主人公のストーナーが冴えない英文学者という設定で、これがなんとも言えずいい。この職業についた時点で、お金や贅沢な暮らしとはまず無縁なわけだけど、その地味な人生の中で、普通に恋愛のごたごたがあったり、学内政治に失敗したり、これまた地味な事件が次々と起こる。ああ、そういうものだよね、そうやって年をとっていくよね、と、50になったばかりの私は、しみじみと我が身を振り返ってしまうのだ。


古典新訳文庫は、もう何冊目かわからない。出始めの頃に目指していた「全冊読破」は、啓蒙書関連がきびしくて挫折したけど、フィクションはなるべく読むようにしている。古典新訳文庫ではじめて読んだ作家もいるし、新訳で再読の作家もいる。いずれにしても、「好き嫌いは言わずに出たらなるべく読む」と決めておくと、ごくまれに「がっかり…」ってこともないわけじゃないけど、たいていの場合、新鮮な驚きと興奮につつまれ、幸福な時間を過ごすことになる。しかも、文庫だから安い。電車の中で読めるし。で、『ピグマリオン』は初読だったんだけど、何しろ戯曲だから、古典新訳文庫に入っていなかったら絶対読まなかっただろうと思う。映画の「マイフェアレディ」はずいぶん毒気を抜いてあるけど、原作はかなり風刺がきいていて、大人の芝居だったんだな。個人的には、こっち(原作)のほうが好き。


宗教本は仕事上の必要があって何冊か読んだのだけれど、この本はものすごく読みやすかった。ちょっととぼけたような語り口が楽しくて、あっという間に読めてしまう。いまのわたしは仕事の関係でちょっと宗教詳しくなっちゃってるから、この本だとちょっと食い足りない感じ。もう少し個々の宗教の教義や儀礼について理解できたら、小説や映画の見方も変わってくるんじゃないかな、と思う。


この一ヶ月の間に、いろんな講演会などに行ったので、記録だけしておこう、と思ったんだけど、なんだかパソコンの調子が悪くて、かぎかっこを打つたびに固まるので、今日はもうやめとこ。


今年も残りあとわずか。年末に高校の同窓会があるけど、それ以外はわりと静かな年末。大掃除をする予定はないけど、この増えすぎてしまった本たちをどうしたものかねえ。ついに自宅のウィンドウズパソコンが壊れたので、年賀状の宛名印刷をMacBookairでやることに。AirPrint対応のプリンタと、マック用の宛名職人を買った。今年は心に余裕があるので、住所入力みたいな作業が結構楽しい。

読了本3冊

昨日、というか今日朝方まで本を読んでいたせいで眠い。なので、取り急ぎこの1週間の読了本をメモ。後日、余裕のあるときに感想など。

チャタレー夫人の恋人 (光文社古典新訳文庫)

チャタレー夫人の恋人 (光文社古典新訳文庫)

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

みごとに海外文学、しかも名訳のそろい踏み。この世には、まだまだ読みたい本、読まねばならない本があるのねー。今日のところはこれにて。

本、本、本。

連休2日目は神保町へ。午前中は古本まつり、午後はブックフェスティバル。古本は全部を丁寧に見られるはずはないので、思い切って文庫と新書の棚は素通り。それでも専大前の交差点から靖国通りを(時折横道にそれつつ)さかのぼり、三省堂書店の前にたどりついたときは既に午後1時。おめあてのカレー屋はしまっていたので、まつりの賑わいから少し離れたところにある蕎麦屋で昼食。午後はブックフェスティバル。こちらは古本まつりにくらべると若い人が多い。午後になってさらに人が増えたのか、ブースによってはものすごい人だかりで近づけない。自社のブースもそれなりににぎわっていて、販売のじゃまにならないよう、若手の同僚にささっと挨拶をして離れる。どれくらい売上げがあるのかはわからないけれど、こんなすてきなお祭りに自分のつとめている会社も参加しているんだと思うと、誇らしい気持ち。古本まつりもブックフェスティバルも、そこで売られている本1冊1冊に個性があって自己主張をしているようで、このときばかりは「売れ行き」とか「ベストセラー」とか関係なく、本たちが1対1の出会いを待っているような感じなのだ。


などと言いながら、祭りの空気だけいっぱい吸い込んで、結局、お金は落とさなかった不実なわたし。いつもじゃんじゃん本を買うのに、なぜか本の量とお祭りムードに圧倒されて、1冊も本を買えなかった。どうしようかな、と思って手に取った本は、何冊もあったんだけどね。なんだか心残りで、連休最終日の今日は、近所で最大の書店である、ジュンク堂吉祥寺店へ。ここでも2時間くらい、ウロウロした末に、やっと1冊だけ購入。古典新訳文庫の『ピグマリオン』。これは、先日「マイ・フェア・レディ」を観ておもしろかったからで、戯曲は苦手(読みにくい)とずっと思ってたけど、古典新訳文庫でシェイクスピアを読んでから苦手意識が一掃されたということもある。でも、これを読むのは、手元のロレンスが読み終わってからだ。


今日は天気がよかったから、自転車で自宅から寺町をぬけて千歳烏山へ行き、三鷹の新川を抜けて井の頭公園へと走った。千歳烏山は下町っぽくて好きだし、新川や井の頭公園のあたりは東京とは思えないほど緑が多い。休日の吉祥寺はお昼を食べるところをさがすのが一苦労、ってくらい混雑するけど、でも(幸か不幸か)ジュンク堂の海外文学のコーナーは静かで落ち着いていて、でもすばらしい品揃え。いい本屋がある、っていうのは、町の最大の魅力だよなーなどと、あらためて思いながら、帰路は玉川上水沿いを走った。近所のスーパーで夕飯の買い物をして(ちょっと奮発してすき焼き!)、メルマガ割引でブロッコリーを激安で買って、帰宅したらすぐ、コーヒーを淹れて、借りてきたDVDを観た。


すき焼きを食べて、食後のコーヒーを飲んで、お風呂に入って、文庫本をひらく。この3日間、本を読んだり映画をみたり、本屋さんに行ったりする以外、なーんにもしなかった。明日からまた、忙しい日々がはじまる。朝から早速、英語のレッスンがあるし、届いている原稿を入稿して、メールの返事を書いて……と、やらなくちゃいけないことが次々頭に浮かぶけど、いやいや、もうしばらく、休日モードに浸ってもいいよね。もう一杯紅茶をいれて、20世紀初頭のイギリスのお屋敷へ、いざ。

ノンフィクションとミュージカル映画

ほとんど月イチ更新となりつつあるブログ。10月は後半も引き続き、講演会などに出席する機会が多く、あわただしく過ごした。そのせいか、読書のほうはあまり進まず、古典新訳文庫のロレンスを相変わらず読書中。合間に読んだノンフィクションが3冊。

「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)

「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

信じない人のための〈宗教〉講義

信じない人のための〈宗教〉講義

最初の1冊は、自分よりひとまわり以上下の世代の女性たちの働きにくさを話題にした本。職場にはこの世代の女性が多いので、彼女たちの本音を理解するのによさそう、と思って即購入して読み始めたのだけれど、うーん、わたしにはいまひとつぴんとこなかった。というか、自分は著者の言うところの「均等法世代」なのだけれど、最後まで読んでも、漠然とした違和感はやはり消えることはなかった。ただ、この本に書かれているようなことを、知識として知っているだけでも、意味はあるのかもしれない、とも思う。


あとの2冊はどちらも、読み終わって「読んでよかった!」と思った本。『九月、…』のほうは、自宅近くの千歳烏山が出てくる、という軽い興味で買ったのだけれど、とても面白かった。学術的な本ではないし、センセーショナルに誰かを弾劾する本でもなく、でも、タイトルどおり、その九月、わたしたちの住むこの東京の路上で、そのようなことが本当にあったんだ、ということを、のほほんと暮らしているわたしに、つきつけてくる。歴史や差別の問題の知識がなくても読めるし、著者がとても「普通」な感じのところがとてもいい。重いテーマだからといって、必ずしも難しい顔をした本にしなくてもいいんだな、と思った。


最後の1冊も、とりあげているテーマの広がり・重さに対して、よくぞここまでかみくだき、わかりやすく、軽妙に説明したものだと、読み終えたときには思わず拍手したくなるくらい、みごとな啓蒙書。仕事上の必要から手に取った本なのだけれど、タイトルにある「信じない人」である私にとって、今まさに読むべき1冊、なのだった。特定の宗教を信仰しているかどうかにかかわらず、宗教についての基本的な知識は、誰もがもっているべきなんじゃないか、と思った。どれが正しいと決めつけたり、どれを信じろと強制することなく、それぞれの宗教の歴史や教えや決まりごとを知識として身につけるような宗教教育ができたら、「道徳」の授業なんかよりずっと意味があるような気もするんだけど、どうだろうねえ。わたしは高校まで公立で、大学も無宗教なので、宗教系の中学校・高校の「宗教」の授業の実態とか全然わからないんだけど、やっぱり特定の宗教の教義を勉強するものなんだろうね。(そういえば、教員免許取得のために通信教育を受けた大学が仏教系だった。必修科目の中に、「仏教」というのがあったような気がする。うろおぼえだけど…)


今日は神保町のブックフェスティバルに行くつもりだったんだけど、雨だったので明日に延期。WOWWOWでたまたまやっていた「マイ・フェア・レディ」を観た。これが、めちゃくちゃ面白くて、しまった、こんなに面白いものを、なぜこれまで観なかったのかと後悔した。先日観た「メリー・ポピンズ」も同様。どうも、ミュージカル映画というのが食わずぎらいだったようで、どちらも名作の誉れ高いのに、なんとなく敬遠してしまったらしい。「マイ・フェア・レディ」は最初の部分を見逃してしまったので、今度は最初から、なるべく字幕に頼らずに観てみたい。


それにしても、わたしが大学生だった頃にくらべると、いまは英語学習のための環境がずいぶん整っているなあ、と思う。その気になれば一日中、日本にいながらにして英語のテレビ・映画だけを見続けることができる。しかも英語字幕にしたり、字幕なしにしたりといった切り替えもし放題。パソコンを開けばニュースをはじめ、あらゆる趣味・関心の英語サイトがあって、SNSで外国人と友だちになるのも簡単。すごいなー、と少しうらやましくなったりもするけど、いやいや、と考え直す。どんなに環境が整っていても、結局、自分自身が学ぼうとしないかぎり、力なんてつかないんだよねー。「聴いているだけで英語力がついた!」なんて嘘嘘。わたしが喋るほうはからきしだめだけど、読むほうはそこそこ自信があるのは、必要に迫られて大量の英文を読み続けた数年間があるから。これから老後の楽しみのためにも、英米の小説を原書で読み、英米の映画や芝居を字幕なしで味わえるようになりたいものだ。


仕事でも、以前よりは英語を読む機会が増えた(当たり前だ、以前の仕事は国語の教科書関係だから…)。先日、定年で退職された会社の先輩と話をする機会があった。あー、なぜもっと早くこの人の話を聞かなかったのか、と後悔。会社関係の人の口から、「TLS」「PW」なんて言葉が出てくるとは思わなかったからびっくりした。会社というソリッドな組織の中で自分のやりたいことをやりぬくのはそれなりに努力と工夫が必要だろうけど、ちゃんとやりぬいている人はいるんだな、というのが、退職した先輩方と話したときのわたしの印象。それらの人たちは、正直言ってわたしなんかより格段に頭がよくて、「切れ者!」って感じなんだけど、それはそれとして、わたしには試行錯誤の(and 波瀾万丈の)数十年に培った人脈がある、というのを武器に、会社員としての責務をまっとうしつつ、いろいろ挑戦してみようと思う。

カルチャーな十月

今月はなぜか公私ともにカルチャーなイベントが多い。先週金曜日、紀伊國屋新宿本店での小川高義先生トークショーヘミングウェイ老人と海』新訳について)を皮切りに、土曜日は翻訳ミステリ読書会(お題はシャーロック・ホームズ『バスカヴィル家の犬』、日曜日は映画「ピーター・ブルックの世界で一番受けたいお稽古」鑑賞、月曜日、某経営学者となぜか小谷野敦談義、火曜日、某宗教学者訪問、そして今日金曜日は、下北沢で奥泉光いとうせいこうの「文芸漫談」、お題は泉鏡花高野聖』。(ついでに明日はなぜか平塚へ宗教のお勉強にいくノダ!)


どっから仕事でどっからプライベートかわからなくなっちゃうくらい、あれこれと雑多に顔を出してるけど、どのイベントもそれぞれに楽しくて、いろいろな人に出会ったり、久しぶり!の人に再会したり、なかなか充実した毎日を送っているのだった。ただ、これだけイベントや新しく人に会う機会が多いと、どうしてもそれに合わせて本を読む必要が出てくる。当然ながら、トークショーや読書会のお題の本は事前に読むので、この10日ほどの読了本は、見事に次の3冊。

老人と海 (光文社古典新訳文庫)

老人と海 (光文社古典新訳文庫)

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

それから、タイトルはあげないけど、初対面の経営学者と宗教学者の著書を各2冊。さすがにきっちり精読するのは無理だったけど、最低限の知識は仕入れておかないと。


翻訳の仕事をしていた頃、とくに専門分野があるわけではないので、いただいたお仕事は何でもお引き受けしてがんばった。翻訳している本の内容については、やっぱりずいぶん勉強するので、突然、化石や恐竜に詳しくなったり、ナチスユダヤ人迫害を扱った本を買いあさったりしたものだ。いまの単行本の仕事も似たところがあって、担当している書籍に合わせて、さあ、ビジネス書について学びましょう、はい、次は宗教を勉強して、という具合に、付け焼き刃なのは間違いないけど、自分なりにがんばるわけだ。もちろん、こうやって仕入れた編集者の知識なんて、何か目に見えて役に立つってわけじゃないんだけど、でもね、なんというか、ゲラを読んだり著者や訳者とやりとりをするときの安心感というか自信が、ちょっとだけ違ってくる感じがする。


というわけで、ちょっと前まで、うわあ、ビジネス書の世界って奥が深いわー、とか言ってたわたしですが、50歳を目前に、今度は宗教の世界に目覚めそうな予感。何か特定の宗教の信者になるとかそういうことじゃなく、宗教がどういう必然性の中から生まれ、私たちの毎日の暮らしにどんなふうに関わりを持ち、世の中をどんなふうに変えているのか、というようなことを知るのはなかなか興味深い。わたしはほんとに不信心者なので、死後の世界とか全然信じてないんだけど、でも妹が死んでから、死ぬことがあまり怖くなくなったのはなぜなんだろう、と考えたり。


こんなふうに大忙しの十月。気づいたら鼻の下にぷっくりと吹き出物が。ああ、疲れ過ぎ、遊び過ぎのサイン。少しセーブしなければ。

同時進行

4月から単行本の編集の仕事にかわって、いちばん大変なのは、複数の本が同時進行ですすんでいく、というところだ。たとえば今日1日をとってみても、午前中、退職した先輩の担当していた本の増刷処理と、新しく企画しているシリーズの準備、合間に8月に出した本の書評の準備、先日校了した本の宣伝の準備、午後は以前増刷処理をした本の著者送付、上司に頼まれた献本処理、12月校了予定の本の入稿と校正準備、合間にその他メールの返事、棚の片付け。以前の仕事に比べると純粋な編集仕事の割合がずいぶん多くなったのは嬉しいのだけれど、その分、同時進行で複数の本がすすむので、いまひとつ気分が散漫になって集中しない、というきらいがある。


また、編集の仕事はたいていの場合、相手(著者)がいるので、自分がどれだけたくさんの本を同時進行していようと、また、他の仕事がどれほど切羽詰まっていようと、基本的には著者に対して、「あなただけ」という姿勢で対応する。それは別におべっかをつかうとかそういうことではなく、本を出すということは多くの著者にとって「特別」なことなのだから、その相手の「特別感」に寄り添っていこうとすると自然にそうなっちゃうんだよね。結果、八方美人な感じに。


同時進行は、得意な人と苦手な人がいるのだろう。わたしはわりと得意なほうだと思う。あきっぽい性格だから、いろんな話題の本の仕事をすると退屈しないし、未練がましくないので、すぐに「次」に行けるタイプだ。これって人間関係にも言えることかもしれない、と一瞬思ったけど、人間関係というか恋愛においては、「同時進行」はなかなか難しい。時々、器用に同時進行している人を見かけるけど、わたしには無理だ。


ただ最近困っているのは、「あれ、わたしは何をやっていたんだっけ」と呆然としてしまうということが、とても多くなった、といことだ。次に何をやろうかと考え、優先順位をつけようとしているうちに、ふと気づくと何も考えず、ただぼんやり、パソコンの画面をながめてた、なんてこともよくある。簡単に言えば、「集中しない」ってことなんだろうけど、こんなことは前の仕事をしているときはなかった。営業活動も含め、仕事の内容は広範囲なのだけれど、あつかっている本はわりと単線構造で、1、2年は同じ本のことをずーっと考えているような感じだ。


今日はジムへ行ってプログラムを2つ。ピラティスホットヨガ。1プログラム1時間なので、合計2時間、みっちり運動した。激しい動きをするわけではないのに、かなり体が疲れてる。あちこち筋肉痛。とくにお腹がつらい。「うすーいお腹にします」って先生は言うけど、わたしのこのでっぷりしたお腹は、なかなか先生のように「うすーく」することはできないのだ。こちらも英会話と同様、楽しければ続くはずだから、あまり無理をせずに、楽しく通おうと思う。ちなみに、今日のプログラムは前回よりはだいぶ人数が増えた。ロッカールームやシャワールームも、少しにぎやかになってきた。周囲の人とちょこちょこっとおしゃべりするのもなかなか心地いい。


帰宅したら「大地を守る会」の食材が届いていた。先週、猛然と注文をしてしまったので、冷凍食品、冷蔵食品をそれぞれしまったら、冷蔵庫があふれんばかりになってしまった。でも、大地の食材はちょっと高いけど、ほんとに美味しい。素材の味がする。明日のお弁当には、どれをいれようかな。お弁当をつくるために、明日は早起きしようっと。というわけで、今日はこのまま寝ます。おやすみなさい。