メンテナンス

わたしはとにかく体力が自慢で、これまで相当無理をしても、大事なときに風邪をひいたり熱を出したりということはなかった。38歳のときにいまの会社に中途入社してからは、とにかく出遅れているのだし、頭の回転が速いほうでもないので、まずは誰よりも体を動かそうと思って、残業、休日出勤も厭わずがんばってきた。最初の頃は若い人たちといっしょに徹夜だってできたのだ。


それがいつからか、1晩徹夜すると翌日は使いものにならなくなり、深夜残業を続けるとミスが増えるようになってきた。階段をかけあがれば息があがるし、立ったり座ったりするときに「よっこらしょ」なんて言うようになった。あーさすがにわたしも体力が落ちてきたんだなーと思うようになったのは、この5年くらいのことだ。幸い、5年くらい前から夜10時以降は残業できないシステムになり、(ピーク時には何日か持ち帰って明け方まで仕事をすることもたまにはあったけど)午前様帰宅は激減した。それでも、毎晩11時過ぎに、久我山駅から家までの坂道を自転車で立ち漕ぎしながら、こんなことしてる40代後半の女の人なんてあまり見かけないよなあと思って、情けなさに涙が出たこともある。そしてとうとう、昨年の人間ドックで病気の徴候が見つかり、人生初の入院・手術を経験することになった。


それで思ったのは、年をとったとかもうおばさんだとか愚痴るのではなくて、自分の体力とか気力・持続力をちゃんと把握して、それなりにメンテナンスすることが必要なんだな、ということだ。精神的にも肉体的にも、無理をして無理をして無理をして……最終的にばあーん!と爆発して周囲に迷惑をかけるのではなくて、そうならないように、自分でコントロールして、まあ、自分の心と体を自分でいたわってやる、ということか。(だれもいたわってくれないからねー。)


この4月に11年間夢中でやってきた教科書の仕事を離れることになって、仕事の内容はもちろんだけれど、職場も、上司や同僚も、生活のリズムも変わった。これをきっかけに、今まで怠っていたさまざまなメンテナンスをこころがけるようになった。そのひとつが、仕事の変化にともなって、5月から英会話を習い始めたこと。これは、翻訳家時代の仲間からしたら、「何を今さら…」と思うかもしれないし、自分でもちょっと恥ずかしいんだけど、でも5ヶ月続けてみて、これは大正解だった、と思ってる。仕事に直結しているわけではないが、まったく無関係ということもなく、記憶を掘り起こしつつ新しいことを学び、まさに頭脳のメンテナンス、というイメージ。出社前の早朝、週2回。先生にも恵まれ、毎回楽しくレッスンを受けている。英語力が飛躍的にのびた、とは思わないけれど、まあ、自分が楽しければそれでいいんじゃないかな。


で、今日月曜日の朝は、その英会話のレッスン。月曜日はいつもイギリス人の先生で、出版業界や本の話題をふってくれるので、退屈することは全くない。今日は、宗教の話をしていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。先生がイギリスにいた頃の上司がイスラム教徒だったそうで、先生の話が面白すぎて英会話のレッスン中だってことを忘れた。


朝、頭のメンテナンスをして、夜は心と体のメンテナンス。あ、今日は昼休みに、会社の近所のカイロプラクティックに行ったんだった。数週間前、大事な仕事の校了直前に、じっとしていても痛い、ってくらいの激痛が肩から背中にかけて走った。わらにもすがる思いで、「脅威の改善率!」と看板を出していたカイロプラクティックに飛び込んだ。半信半疑だったんだけど、これが、治っちゃったんだな。それで、最初は5日後、1週間後、2週間後、って感じで、4回くらい通ったんだけど、いまやほんとに、肩こり・腰痛、さようなら、って感じ。


で、アフターファイブは先日両親といっしょに入会したばかりのスポーツジムへ。先日オープンしたばかりで、あまり宣伝もしていないせいか、スタジオプログラムもロッカールームもめちゃくちゃゆったりしてて贅沢。先週に引き続き、ホットヨガのプログラムに参加したんだけど、インストラクターはかなりレベルが高い感じで、人数が少なくて申し訳ないような気持ちになる。通常のジムの月会費で、一流インストラクターのセミプライベートレッスンが受けられちゃうわけだから、こちらとしてはほんとにありがたいんだけどね。まあ、だんだん人も増えてくるだろうから、いまのうちは贅沢を満喫しておこうかな、と思う。


帰宅すると同居人が夕食の用意をしてくれていた。メインメニューはサンマの塩焼き。すごい脂がのってて、大根おろしをたっぷりかけて食べた。やっぱり旬の魚は美味しいね。


というわけで、メンテナンスな一日が終わった。そういえば、仕事でもいま、先輩が担当してた本のメンテナンス(=増刷の処理)をしてる。著者がすごく立派な方で、内容もおもしろく、詳しくは書けないがメンテナンスのしがいのある本なのだ。明日は英語もジムも行かないので、さっき実家に寄ってもらってきた立派な松茸を使って、土瓶蒸しでもつくろうかな、と思っている。今日はこれから、ちょびっとだけ『バスカヴィル家の犬』を読んでから寝ることにしよう。

週末。

昨日は吉祥寺で映画。「舞妓はレディ」というのを観た。感想はまあまあ、というところ。お昼を食べておなかいっぱいだったせいか、ちょっと眠かった。一緒に行った人はかなり面白かったと言ってたから、好みの問題かな。主役の新人女優は、なかなかフレッシュで良かった。


お昼は吉祥寺麺通団。いつもこんでてざわざわしてるけど、吉祥寺の讃岐うどんやさんの中ではいちばん美味しいと思う。うどんは少なめにして、つけあわせにちくわ天ととり天。ああ、ダイエットは何処へ。


いつものようにジュンク堂へ。仕事のことが気になって、いつもはあまり行かない7Fの専門書フロアをうろうろ。結局、珍しく何も買わずに店を出た。この日は映画館の隣の古本屋で、『教科書の中の宗教』という岩波新書を買った。


夜、というか、明け方、絲山秋子『離陸』読了。

離陸

離陸

いい小説だった。絲山秋子は『袋小路の男』をはじめて読んでからファンになり、単行本はほとんど読んでいる。あとがきに「短編のほうが得意」と書いてあったけど、そうなのか。でも、この作品は巧いなあ、と思った。わたしは絲山秋子の小説に出てくるような男にめっぽう弱い。だから、主人公(語り手)の男の子にめいっぱい肩入れして読んでいたので、長編だからといって退屈することは全然なかった。それに、いつものように町の様子や仕事の内容、登場人物の姿形や言動など、細部の描写が実にみごと。たとえば後半に出てくる熊本の八代は、出張で3回ほど行ったことがあるんだけど、いいところも悪いところも、もう、まったくそのとおり!うますぎる。ただ、それだけに、わたしにはタイムスリップのくだりがちょっとなじめない感じがした。ファンタジーにする必要があったのかなあ。ちょっとよくわからない。


日曜日、お昼は千歳烏山でうなぎ。「あら井」という店にはじめて行った。かなり美味しかった。昼間からうなぎなんて、相当贅沢だけど、これには理由があって、土曜日の夜、美味しいものを食べようと思ってわざわざ永福町まで行ったのに、お祭りかなにかの関係でどこも入れず、結局自宅近くまで戻ってきて近所の中華料理屋で簡単に夕食をすませたから。「夜は節約しよう」と言い聞かせ、贅沢なうな重を満喫。身はふっくらして、たれは濃い味なのにあとあじさっぱり。グルメな兄や両親にも教えてあげよう。


自転車で経堂の古本屋「遠藤書店」へ。自転車に長時間乗る、ということに重きがあったので、遠回りして到着。ごく普通の店構えだけど、中へ入ってみると、なかなかの品揃え。通勤読書用の文庫本を2冊購入。高山文彦『地獄の季節』と、絲山秋子『ダーティ・ワーク』。


千歳烏山に戻り、知人に薦められたやくざ映画「バカ政アホ政トッパ政」を借りて観る。これはもちろん、眠くなる暇などあるはずもなく、時々「痛い…」と目をそむけたりしながら、最後まで熱中して観た。ただ、「仁義なき戦い」のシリーズにくらべると、軽いタッチで現代風。それは、舞台設定の時代の違いによるのかもしれない。これがさらにライトになって現代風になると、「ミナミの帝王」シリーズになるのかも。


昼に贅沢をしてしまったので、近所のスーパー「さえき」で夕飯の買い物。高い食材は買わず、秋鮭としめじの炊き込み御飯、麩とわかめのお吸い物、じゃがいもとひき肉のいため、茶碗蒸し、といった献立。美味しくできた。でも、満腹になるまで食べてしまってはだめだ。案の定、夜体重をはかって、がっくり。


自分の備忘のために、ツイッターに書いてる6月〜9月の読了本を記しておく。気が向いたらそのうち感想を。

素数たちの孤独 (ハヤカワepi文庫)

素数たちの孤独 (ハヤカワepi文庫)

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ

東海道五十一駅 著者 小谷野 敦

東海道五十一駅 著者 小谷野 敦

もっとあったような気がするけど、とりあえず。また、仕事関係の本はのぞく。
あらためて、自分としては驚くほど小説が少なかったことに気づく。9月に入ってから、『ボヴァリー夫人』『東海道五十一駅』『離陸』を読んだのだから、6月から3ヶ月、ほとんど小説を読んでいなかった、ってことか。うーん、もったいない。


次に読む本は、10月4日に参加予定の「翻訳ミステリ鎌倉読書会」課題図書である『バスカヴィル家の犬』。もちろん、既読だけど、今回は日暮さんの訳で再読。大好きなBBCドラマ「Sherlock」を思い出しながら、本家本元を名訳で再読する、っていうのはなかなかハッピーな作業かも。


そうだ、「Sherlock」といえば、シーズン3がHuluで観られると知って、早速アクセス。ところが、これが「英語字幕版」なのだ。よしよし、英語の勉強もかねて……と見始めて、自分の英語力のなさを痛感。カンバーバッチさまはあまりに早口なので、耳で聞いて聞き取れないばかりか、英語字幕を読むスピードも追いつかないのだ。それでも無理矢理エピソード1は最後まで観た。たぶん、理解度は70%くらいじゃないかな。


今回からちょっとブログの書き方を変えてみた。仕事以外の活動、読書や食事その他については、固有名詞をばしばしいれて、備忘録ふうに書くのを基本にする。気が向いたら本の感想やそのとき思っていることを詳しく書くつもり。なんだかツイッターの延長みたいで気が引けるんだけど、こんなふうにでもしないと、このままブログは自然消滅してしまうような気がしたので、とりあえず。わたしは何事につけ、「自然消滅」みたいなのがきらいなのだ。人間関係でも諸活動でも、「自然」に「消滅」するんじゃなくて、自分の意志で「終わらせ」たい。内容が多少薄くなったってかまわない。とにかくマメに書き続ける、ということに重きをおいてしばらくやってみよう。あ、見直しもしないよ。

夏休み終了。

長い長いブランク。もうブログの書き方も忘れてしまった。けど、やっぱり完全にやめてしまうのは、飽きっぽいわたしにしては珍しく続いていたことの一つなのでもったいない。と思ったので、うまく書く自信はないけど、軽い気持ちで3ヶ月ぶりに書いてみることにする。


ここ数年、夏休みの旅行は沖縄が定番だった。でも今年は、諸般の事情により、どーんと沖縄に行くかわりに、広島・札幌・仙台と、1・2泊の旅行を3回。広島はともかく、札幌は仕事がめちゃくちゃ佳境のときだったので、ゲラを持っていって定山渓温泉で読んだ。翻訳者や校正者に心の中でごめんなさいーと叫びつつ。で、その仕事は無事終わって、さっぱりした気分でこの連休、仙台→鳴子温泉へ行ってきた。先ほど帰宅し、これで夏休み終了。


広島・札幌・仙台の旅行は、某アーティストのライブをメインイベントにするという、この年にしてなんとも気の若い行動だったのだけれど、今夏は(というか、去年から)もうひとつ、気の若い行動に出ていて、それが高校のOB会のソフトテニス合宿への参加!なのだった。下は高校出たての大学生から、上は60代の大先輩まで、老若何女が山中湖に集って皆でテニスをするのだけれど、これがまあ、練習も試合も、ブランクがあろうが体が動かなかろうがそんなことおかまいなしで、びしびしと参加しなくてはいけない。たまたまペアを組んだ若者にかける迷惑を最小限におさえるべく、とにかく凡ミスだけは避けようと、それはもう必死。2日間の合宿を終えて、翌日は全身筋肉痛の体を引きずるようにしてにこやかに出社、という、無謀な夏休みだった。


ライブやテニス合宿に行って思うのは、ちょっと月並みだけど、若いっていいなあ、ということ。わたしは子どもがいないということもあって、親子ほどに年の違う若者たちといっしょにいても、あまり「親のような気分」になることはないんだよね。むしろ、彼ら、彼女らのような頃が自分自身にもあって、あんなふうにひたむきで、不安と希望に満ち満ちていたよなあ、そんな頃にはもう二度と戻ることはないんだなあ、と切ない気持ちになる。もちろん、いまの生活や仕事に不満があるわけではないし、これからやりたいことも、できそうなことも、まだまだいっぱいあるんだけど、あの若い頃独特の「無敵」な感じ、「無謀」な感じ、常識や枠をぶっとばしていく感じは、こんなにも得難いものだったのねーと改めて思うのだ。


で、なぜかここのところ読書も不調で、この3ヶ月の間の読了本ってほんとに少ない。とりあえず、さっき新幹線の中で、ずーっと鞄の中であっためてて、ちょっとずつ読み進めてた『ボヴァリー夫人』を読了。

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

これは、大学2年のときに一度読んでるんだけど、読後の印象はずいぶん違う。
なにしろ大学生のときは、自分にとって「結婚生活」というものはまだまだ遠い世界の話だったはずで、そんな中、凡庸な男との結婚生活に幻滅して他の男たちに走っていく女主人公に感情移入して読んでいたのだ。わかる、わかる、と共感しつつ、人生の教訓を得るような気持ちで読んでいたように記憶している。ところが、今回読み返して思ったのは、この小説の主人公はシャルルであり、エンマの恋人たちであり、オメー氏やルールーなどの男性登場人物たちなのかもしれない、ということ。大学生のときに感心して読んだはずのエンマの胸の内というのは実はあまりしっかりと描かれていなくて、滑稽なほどに愚かで浅はかな女として戯画化されているように思った。だから今回は、エンマについての描写はコメディーとしてしか読めず、一方でこのような愚かな女を信じて振り回されたり、逆に利用したりした男たちの言動に、リアリティーを感じて面白く読んだ。こういう楽しみ方ができるのが、小説の醍醐味だなーとつくづく思う。同時代の女性作家が書いた小説に感情移入しつつ読むのももちろん楽しいんだけど、時代も舞台も遠く離れた設定の、戯画化された登場人物たちの言動の中に、人生のリアリティーを感じられる、というのはすごいことだ。


その他の読了本の感想を書こうと思ったんだけど、さすがに旅の疲れで眠くなってきたので、今日はここまで。おやすみなさい。

2冊読了

この間、2冊読了。といっても、1冊がとても重い内容だったので、次の1冊は軽いエッセイを選択。

バニヤンの木陰で

バニヤンの木陰で

かつて自分が訳した『エディスの真実』と、とても重なる部分が多い。ナチスによるユダヤ人虐殺、クメール・ルージュによるカンボジア人虐殺。同じ人間どうしで、それも中世とかならまだしも、100年も経たない過去に、こんなにも悲惨で理不尽なできごとが起きたということが信じられない。ともにその最悪の状況の中を奇跡的に生きのびた著者が、少女だった当時のことを振り返って書き記している。「エディスの真実」は手記だったけれど、こちらは「小説」の形をとっている。


この2冊がすばらしいのは、このような悲惨な状況を描いているのに、情景描写が美しく、家族の態度や言葉が時に気高く、人間の弱さや醜さ以上に、人間の強さや生きる意味、言葉や想像力の力がみごとに描き出されている、ということだ。正直に言えば、「小説」であるこの本は、「できすぎ」「立派すぎ」と思ってしまうくらい、苦境に立ち向かう主人公の姿が美しく描かれている(もちろん、嫉妬やあきらめなどマイナスの部分も描かれているのだけれど)。迫害者の描き方にも、著者の体験を考えたら信じられないくらい、優しさと寛容さがあらわれていて、一方的に弾劾したり、悪人扱いすることはない。


ただ、読み進めていてあまりにつらいので、早く主人公が救われる場面を読みたい、と、後半はものすごい駆け足になってしまった。歴史の授業や新聞などで「知識」として知っていることの姿かたちみたいなものを、自分にかかわりのある問題として受け止めるのに、「小説」という媒体は大きな力を発揮する。


おまけの1冊はこれ。

25年前にはじめてイギリスに行ったとき、どうしても訪れたかったのがこのハムステッドの町。キーツ・ハウスやキーツの墓をたずねたときの興奮を思い出した。というか、あれからもう四半世紀も経ってしまったのか、といことに驚愕&衝撃を受けている。ふと思いついて、グーグル・アースで当時通っていた英語学校やホームステイ先の家などを検索してみた。ステニング、という町である。学校はもうないし、ハイストリートもずいぶん様変わりしていたけれど、いかにもイギリスの郊外、って感じの風情は変わっていなかった。ロンドンから1時間以上かかる不便なところだし、ホストファミリーが今もそこに住んでいるのかわからないけれど、でももう一度この町をたずねてみたい。


昨日は法事。今日はお弁当をつくって善福寺公園へ。帰りに音羽館へ寄って、エリアーデ『妖精たちの夜』上下を4000円で購入した。前にもブログで書いたことのある外国文学好きの上司が、「エリアーデを読みなさい」と言っていたのを思い出したので。エリアーデなんて1冊も読んでない、と思っていたのだけれど、考えてみたら河出の池澤全集で『マイトレイ』を読んで、たいへん感銘を受けたのだった。最近の海外文学は短篇集が話題になることが多いように思うけれど、わたしはやっぱりがつんと長篇が好きなんだよなあ。

文学×翻訳×語学(その2)

5年以上前に、上記のタイトルでブログを書いている。
http://d.hatena.ne.jp/mari777/20071216/1197795396
このとき話題にしている斎藤さん、野崎さんと、自分自身を一緒くたに語ってしまってはいけないのだが、私は私なりのレベルで、この3つのテーマがつくる三角形をいろいろな形に作りかえながら生きてきたように思う。いちばんつきあいが長いのはもちろん「文学」で、子どもの頃からずっと、日本海外問わず、小説や詩を読むのが好きだった。将来に役立つとか受験に有利とか考えたことは一瞬もなく、ただ楽しいから、おもしろいから読んできたのであって、多少見栄を張って背伸びして読むことはあったとは思うけれども、何かの力をつけたいとか、誰かに何かをアピールしたいというような欲望とは全く無縁だった。大人になってから、そのような理由・目的をもって文学作品を読もうとする人が少なからずいることを知ったときには、ほんとうに驚いた。ただ、自分が好きなものをみんなが好きとは限らないので、他人に強要しようとは思わない。抵抗するのは、子どもが文学と出会う貴重な場である国語の教科書から文学を排除しようとする人々に出会ったときくらいだ。それも、最近はやや弱気だけど。


「語学」については、ここではとりあえず「英語」に限定すると、テニスに夢中だった中高生のころは、あまり得意ではなかった。英文科に入ったものの、英語力という意味ではクラス30人のうちのビリかビリ2くらいだったと思う。さすがにまずいと思って、大学4年間、アルバイトでためたお金をつぎこんで英会話教室に通った。が、縁故で入った商社は帰国子女がわんさといる会社で、ここでも英語力はたぶんビリグループ。翻訳学校に通い始めて、訳文はまあまあ褒められることもあったけれど、やはり英語力は全然足りない。商社OL時代の貯金と退職金をはたいてイギリスに短期留学して、必死に勉強して、まあそれなりに力をつけて帰国。某社の英語教育雑誌の編集アルバイトの仕事にありついた……と、ここまでのところ、ずいぶん英語を勉強してきた、というか、英語学習にお金をつぎこんできたのだけれど、実際は仕事で英語を使うということは、ほとんどなかった。もちろん、翻訳家の仕事は、基礎となる語学力がなければ成り立たないものなので、長年の努力は無駄にはなっていないわけだけれど、少なくとも20代までは、「語学力をつけて仕事に役立てたい」という気持ちが強かったなあと思う。留学時代は楽しかったし、英語を学ぶのがものすごくつらかったらたぶん続かなかったと思うけど、「文学」のように将来のことなどを考えずに、ただただ好き、というのとはちょっと違っていた。


そんなふうに考えていくと、「翻訳」はちょうどその中間、訳すことじたいが楽しい、という側面もあったけど、職業翻訳家として印税をもらって生活できるようになりたい、という欲望もあった。翻訳学校に7年通ったから、ずいぶんお金もつぎこんだ。7年分の授業料くらいは、印税・翻訳料をもらったんじゃないかなあ、とは思うけれど、翻訳だけでは食べていけなかったのだから、「仕事」としては割にあわないもの、翻訳の作業そのものが好きじゃなかったら絶対続かないものであるのは間違いない。このままでいいのか、という生活面の不安を感じ始めた30代後半に、「翻訳の仕事を続けながら翻訳書の編集をしないか」と誘われ、すっかりその気になっていたのにその話が頓挫。生活の不安を解消すべく、別の出版社に入って教科書編集者となり、きっぱりと翻訳の仕事はやめた。


6年前のブログ記事は、そうやって教科書編集者となったものの、担当している仕事の内容や職場の雰囲気にどうしてものりきれず、かなり迷っている時期に書いたもの。その半月ほど後の翌年正月に、そうした悩みを率直に書いていた。
http://d.hatena.ne.jp/mari777/20080108/1199816354
その後、部内の担当グループの異動で、高校生向けの本をつくるようになって、悩みは解決した。この5年間は、たまに「文学」について考える機会はあるものの、仕事でこの3つのテーマを直接扱うという機会はほとんどない、という生活。でも、そのことに不満はなかった。「語学」に至っては、あれほどムキになって英語を学習したのは何だったのだろう、というくらい、すっぱりと忘れた。英語圏への海外旅行は行かないし、身近にネイティブスピーカーもいない。町で外国人を見かけたら、話しかけられないように逃げるようなていたらくとなった。「翻訳」のことはもう少し屈折していて、あきらめはついているはずなのに、翻訳学校の仲間が翻訳家として活躍をしている姿を見ると、少しだけ胸がいたんだ。


大台にのる今年、「語学」「翻訳」に近い部署に異動になったのは、奇跡に近いようにも思う。正直に言えば、この年齢で新しい職場で新しい仕事をする、というのは、結構きつい。ぎりぎり、いっぱいだ。教科書のサイクルにしたがってあと4年、前の仕事を続けていたら、正直、二の足を踏んでいたかもしれない。このタイミングで、こういう場を与えられたのだから、躊躇している場合じゃないのだ。いびつで小さな三角形かもしれないけど、とにかくこの3つのテーマを直接扱える位置まで来たのだから。

近況報告

またしても一ヶ月、ブログの更新をさぼってしまった。この間の読了本はわずか3冊。

頭の悪い日本語 (新潮新書)

頭の悪い日本語 (新潮新書)

新装版 真夜中の相棒 (文春文庫)

新装版 真夜中の相棒 (文春文庫)

この世界の女たち アン・ビーティ短篇傑作選

この世界の女たち アン・ビーティ短篇傑作選

『頭の悪い日本語』は、どなたかがツイッターでつぶやいていたけれども、比較的「小谷野度」(ってすごい造語)が低い著書。とはいっても、一般的な日本語の誤用指摘本よりははるかに、著者の見解が前面に出ていておもしろい。「頭の悪い」とされた日本語の中には、必ずしも誤用ではないものも含まれていて、あー、たしかに使っちゃってるよ、と思うこともしばしば。こうしてブログやツイッターを書いていても、「頭の悪い」文章を書き散らしちゃってるなあ、と情けない気分にもなる。が、まあ、これらは趣味で書いているのだから、神経質になる必要もないだろう。仕事でメールや手紙を書く際に、著者の方々から「頭悪い」「気持ち悪い」と思われないように注意しようっと。


『真夜中の相棒』はツイッターで話題になっていたので買ってみた。初読。読んでいる間はとてもおもしろくて、どんどん読み進められたんだけど、案外印象に残っていない。映画かテレビドラマをみているようで(実際映画化されたらしいが)、描写は翻訳も含めとてもいいのだろうけれど、結局のところ、男たちの愛憎、ノワール、といった世界に、私自身がいまひとつのれないというのが、モヤモヤした感想になってしまう原因だろう。


最後のアン・ビーティは、結構読み進めるのがつらかった。出てくる女たちがことごとく不機嫌で、生きていくことが辛そうで、読んでいるこちらがつらくなるくらいだから、やはり小説そのものも翻訳もうまいのだろう。アン・ビーティの名前は久々に目にしたように思う。レイモンド・カーヴァーやアン・ビーティって、やっぱり80年代のアメリカの匂いがぷんぷんする。この短篇集には比較的最近書かれたものも含まれていたけれども、そういう作品もなんとなく、80年代っぽい。考えてみれば当時英文科の学生だったわたしは、アメリカよりイギリス、短篇より長篇が好みで、ミニマリズムっていまひとつぴんとこなかったんだよね。


さて、次は何を読もうかな。がつんと重厚な長篇小説がいいんじゃないかねえ。今週末は同居人が出張でいないので、家で本を読んだり、仕事で必要な本屋めぐりをしたりと、のんびり過ごす予定。そういえば昨日から、仕事で担当することになった本のタイトルを決めるために、いつもはあまり行かないような人文書とかビジネス書のコーナーをのぞいてるんだけど、いやあ、本の世界ってほんとに奥深い。同じようなテーマを扱った本がごまんとあるわけだけど、その中でも、情報量の多いもの、少ないもの、高価な本、安価な本、いろいろあるわけで、一つ一つ丁寧に見ていくと、やっぱり出来のいい本と悪い本があって、売れてる本ってやっぱりそれなりに魅力があるんだよなー。昨日、吉祥寺の書店(うちの本を置いてくれそうな大きいところ)はひととおりみてまわったので、今日明日で新宿、渋谷を見てこようかな、と。古本屋めぐりも楽しいけど、わたしはどっちかというと、新刊書店をまわるほうが好き。

GW初日

部署を異動してまもなく一ヶ月がたとうとしている。先週、前にいた部の仲間が心のこもった歓送迎会を開いてくれた。その余韻にひたる間もなく、新しい職場の仕事は怒濤のように押し寄せている。自分の企画、上司から引き継いだ企画、上司の手伝い、と三段階くらいの仕事が全部で6、7種類あって、それらが同時進行しているのでもう、てんやわんやだ。以前の部署でもそうだったのだけれど、どうもわたしが仕事をすると、頭脳労働というよりは肉体労働っぽくなってしまう。同じ会社でも、辞書の編集者などはずいぶん様子が違うようにも思うけれど、まあ、これが自分のキャラクターなのだろう。著者からいただいた「体育会系編集者」という肩書?を、ありがたく継続使用していくことにする。


先週の読了本は1冊のみ。ほんとに読書量落ちてるなー。

高校時代のテニス部の後輩が「ど真ん中でキュンキュンきますよ〜」と絶賛していたので読み始めたのだが、まさにそのとおり。わたしはとくにユーミンが好きだったというわけではないのだけれど、それでもこの本に言及されているユーミンの曲はほとんど知っていたし、まさにそこで述べられているような青春時代を送り、いまに至っているわけで、読後の感想をひとことで言うと、「酒井順子恐るべし!」なのであった。


この本を読み終えて、久しぶりに20代の頃のことを思い出した。以前の仕事柄、高校時代のことはよく思い出していたけど、大学時代〜最初に就職した会社を退職するくらいまでのことって、あまり振り返ることがなかったみたいだ。ユーミンの歌詞どおり、彼が運転する車の助手席におさまり、苗場プリンスでスキーを楽しむ。「山手のドルフィン」も、もちろん行きましたとも。田中康夫の小説に出てくる葉山の「ラ・マレ」も、サザンの歌詞に出てくるバー「スターダスト」も、「彼が運転する車」で行くのがあたりまえだった。バブルがはじけ、それと前後してわたしのこのような生活もはじけたわけだけど、酒井順子がこの本の中で書いている、2012年の苗場プリンスで「夫と一緒に楽しそうにユーミンを聴く妻」(105ページ)になっていたとしても、全然不思議じゃない、ごくごく近いところにいたんだな、とあらためて思い出した。


その後も酒井が分析するとおり、ユーミンの歌詞にいちいち共感しつつ、30代、40代を過ごしてきた。ピンチになれば助けてくれる「ガールフレンズ」に囲まれ、「Lonely Soldiers」の一人として仕事に向かう。いまうちには車はないから、営業で地方をまわるとき以外、「助手席」に乗ることはめったにない。数年前に会社のテニス部の合宿で、男性の同僚の車の助手席に乗せてもらったときには、ちょっとドキドキしてしまったくらいだ。最近はユーミンを聴くこともめったにない。我が家のリビングで流れているのは同居人が夢中のPerfumeばかり。GW初日の今日、1日だけ30年前に戻って、誰かが運転する車で海辺の「マーロウ」へ連れてってもらいたいな、などと、不届きなことを考えてしまった。


で、現実に今日はどんなふうに過ごしたか、というと。自転車で高井戸の温泉に行き、広和書店でお買い物、夜は家でカレー、という、最近の典型的な休日の過ごし方をして、幸福感いっぱいなのだった。本日の購買商品は、アン・ビーティの短編集『この世界の女たち』(岩本正恵訳)、小谷野敦『頭の悪い日本語』、松田美佐『うわさとは何か』、テリー・ホワイト『真夜中の相棒』(小菅正夫訳)の4品。この頃読書のペースががたんと落ちているのに、本を買うペースがどんどんあがっていて、カバーのかかったままの本(未読本)が増えるばかり。上司から週末に「月曜日までに読んでおいて」と渡されたゲラ200ページ弱もあって、体育会系編集者の日常は、ユーミンの歌詞とはずいぶん遠いところで繰り広げられているようだ。