この一週間

GWの最終日は、新宿で映画「英国王のスピーチ」を観た。
評判どおり、なかなかいい映画だった。
ストーリーは最初から想像がつくし、どうということはないんだけど、
イギリスの歴史や風物を楽しむこともできるし、
役者がみんなうまくて、映画らしい映画を観たなー、と思った。
お客さんもわりと年配の人が多くて、広い映画館だったのでゆったりと座れて、
映画を観たあとは「すずや」でとんかつ茶漬けを食べて、
休日らしい一日だった。


あ、もちろん新宿で、紀伊國屋書店に寄ったのだった。
2Fの文庫本のフロアでおもしろいフェアをやっていて、
1Fの海外文学の棚をうろうろしていたわたしを、
2Fにいた同居人が、「なんかすごくいい本がそろってる」と、わざわざ呼びにきた。
「文学博覧会」というようなタイトルで、
古今東西の名作文庫をテーマ別に紹介しているのだが、
テーマや作品の選び方が遊び心満載、かなり趣味的な感じだ。
(今もまだ開催していると思うので、興味のある方はぜひ。
 いまHPを観てみたら、このフェアの関係で、
 フラナリー・オコナー「賢い血」(須山静夫訳)が、本店のトップページに大きく掲載されている。
 これってイマドキ、すごいことだと思う。)


仕事上では、週の半ばに大きな節目のイベントがあり、
あわただしく、緊張感のある1週間を過ごした。
金曜日にはこの仕事の打ち上げがあり、近年にないくらい上機嫌で飲んだ。
はしゃぎすぎて喉が痛くなるほどだった。
ここに至るまで、自分で思っていた以上に気を張っていたのかもしれない。


そんな中、電車の中や夜寝る前に読んでいる本は、次の2冊。

イングランド紀行〈下〉 (岩波文庫)

イングランド紀行〈下〉 (岩波文庫)

魯迅――東アジアを生きる文学 (岩波新書)

魯迅――東アジアを生きる文学 (岩波新書)

イングランド紀行』は、この前もブログに書いたけれど、
好きすぎて読み終わるのがこわい。感想も書けないような気がする。
魯迅』は、明日のシンポジウムの報告もかねて、感想を書くことにする。
さらに今日、購入した文庫本が、これ。
名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語 (ちくま学芸文庫)

名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語 (ちくま学芸文庫)

ここに掲載されている「指導書」は、1981年〜1983年に刊行された「現代国語」のもので、
わたしはまさにその頃、高校生だった。
(自分が使っていた教科書がどこの会社のものだったのかなんて、当然ながら、まったく覚えていない。)
ページをぱらぱらと繰りながら、1800円もかけて他社の指導書を読むのか、という思いと、
わずか1800円で密度の濃い研究書を読めるんだ、という思いが交錯した。
で、巻末に付されている安藤宏氏の「解説」を読んだら、うまく言えないが、泣きそうになった。
安藤氏は、「かれこれ二十年、教科書作りのお手伝いをしてきた経緯もあり、
私自身、かつて夏休みごとに原稿用紙五十枚〜百枚位の指導書原稿を作っていた時期があった」(770ページ)という人物である。


  筑摩の指導書は難解すぎて授業の役に立たない、という苦情がしだいに寄せられるようになっていった。
  採択に直結する問題でもあるので、むろん、現在では語釈を大幅に増強し、
  授業の展開のヒント、発問例など、実践的な要素が増やされている。
  しかし、他社の指導書には授業の「板書例」が示されているのに筑摩にはないのはなぜなのか、といった問い合わせが寄せられるに至って、
  指導書の性格は根本的に変容しつつあるように思う。
  何しろ定期テストの問題例が指導書の付録にされる時代である。
  これさえあれば誰でも授業ができます、というマニュアル化の流れの中で、「清光館哀史」が生き残るのは絶望的な状況なのだ。(771−772ページ)


  本書には、教師が一方的な価値観を学習者に押し付けてはならぬ旨を強調するくだりが随所に見えるが、
  同時にまた、生徒の自主性の名のもとに放恣な読解が許されてはならぬ旨も強調されている。
  矛盾といえば矛盾だが、こうしたダブルバインドを乗り越えていく道は、
  ひとえに教える側の教材への深い愛着(愛憎)にかかっているのではあるまいか。
  教師が教材と指導書の「挑発」に触発され、その内的なドラマを媒介に学習者が文章に出会っていくという「できごと」
  ――おそらくこうした「できごと」の一回性を抜きに、教科書の権威や、教育の画一的なマニュアル化に立ち向かっていく手だてはないのだろう。(774ページ)


自分の仕事とあまりに近いので、コメントは差し控える。
試合前の乱打が終わって、靴紐を結びなおしている気分、とだけ書いておこう。
(わけわかんない比喩でごめんなさい)