人生はうしろ向き!

「イギリス祭り」の一環で、南條先生の新書『人生はうしろ向きに』を読む。一気に読了。

人生はうしろ向きに (集英社新書)

人生はうしろ向きに (集英社新書)

痛快。さすが南條竹則。新書だから文章もやさしくわかりやすい。
あっという間に読める人生訓だ。うふ、こういう「お説教」ならOKなの。


第一章 何事も今より良くはならない
第二章 イヤだ、イヤだ、未来はイヤだ
第三章 人間には「昨日」しかない
……
以下、このような見出しが続く。
たとえば第二章には、こんな文章がある。
   

   若い人が好む食べ物も、住居も、生活様式も、何もかもわたしの趣味には合わない。
   ハイブリッドな新文化など、真っ平だ。
   刺身にマヨネーズをかけるような人生は、御免だ。
   こんな世界に順応しろといわれたら、狂ってしまう。
   ああ、イヤだ、イヤだ。
   未来はイヤだ。明日はイヤだ。
   どうして「明日」なんかを待ち望んで暮らせるのだ。(44-45ページ)


まあ、こんな調子で、著者はひたすら「うしろ向き」の人生をすすめる。
「前向きに生きてもつまらぬ、うしろ向きに生きるほうが幸せだ」(50ページ)というのが著者の考えで、
この本はこの主張を支えるために、東西のさまざまな古典をひいてくる。
「うしろ向きの達人」として紹介されているのは、「エリヤ随筆」のチャールズ・ラム。
引用を交え、文人たちの素敵な「うしろ向き人生」が紹介されて、
向上心あふれる体育会系のわたしでも、なるほど、もっともだ、という気分になってしまうからふしぎだ。


もっとも、こんなタイトルの本を手にとるという行為自体、
「前向き礼賛」に辟易している証拠なのだ。
だからこの本を読むのは、多かれ少なかれ、「前向き人生」にくたびれた人にちがいないし、
現実にこの一、二ヶ月のわたしの気分は、まさにそんな感じだった。
おそらく、二年越しの大きな仕事が終わりに近づいているせいだろうから、
次の一年がかりの大仕事にとりかかったら、またパワー全開でがつがつ働くような気もするけれど。


我が家では、GWにはテレビドラマをレンタルDVDなどで一気に観る、というのが恒例となりつつあるのだが、
今年は山田太一の「岸辺のアルバム」を観た。ほら、うしろ向きでしょ。
家族のありよう、仕事に対する考え方、若い人たちの風俗、何から何まで、昭和だ。
そしてわたしの価値観や判断基準の根本は、どうやらこの70年代のドラマとほとんど変わっていないような気がする。
だから、八千草薫が演じる浮気をする主婦の年齢を少し過ぎたいま、
主人公の気持ちが痛いほどわかる。杉浦直樹が演じる夫の職場での葛藤もわかる。
上智の英文科」に通う娘のプライドもわかる。アップダイクを原文と翻訳を交互に読んで勉強したりして、
ああ、英文科が、外国文学が輝いていたのねーと思う。
夫の職場は商社という設定で、お茶くみをする事務の女の子がいる。
文字どおり、お茶くみ、コピーとり。
はい、わたしもやりました。こんなに極端じゃなかったけど、男の仕事と女の仕事はまったく別のものだった。
男性社員(一般職)の新入社員研修は2年、女性社員(事務職)は3日。
岸辺のアルバム」でも、愛想の悪い女性事務員に部長が「ほら、笑顔になって」という場面が出てくるが、
当時は「女は愛嬌だよ」「お嫁の貰い手がないぞ」みたいなことは、職場で普通に言われていた。
いまだったらセクハラで訴えられちゃうかも。


イングランド紀行」も文芸誌もちょびちょび読んでいる。
震災後、いろいろな人がいろいろなメディアで震災について書いているが、
内容がびっくりするほど似ている。芸能人やスポーツ選手ならともかく、
作家や詩人、文芸評論家など、言葉で仕事をしている人ですら、
同じような陳腐な文章になってしまうのは、どうしてなのだろう。
そんな中で、「群像」の連載、秋山駿「『生』の日ばかり」の書き出しがよかった。
テレビを観ていての感想である。


   自分も被災しながら、津波の跡の瓦礫ばかりの広い地平で、肉親を捜す人、人、人がいる。
   どなたをお捜しですか、と問われて、一人の女性がこう言った。
   <名前を言ってしまうと、帰って来ないような気がするので、いや。>
   (301ページ)


同じようにテレビを観ていて、この一言をしっかりと拾うのが作家だ。
作家はこの言葉の意味、重さについて、1ページほど述べている。
この文章に全面的に共感するというわけでもない。
でも、連日テレビ画面に流れていく被災者の姿や声の中で、
この一言に立ち止まって書き記してくれる人がいてよかった。
「日本は一つのチーム」とか、「決してあきらめないで」とか、
そんなメッセージは、芸能人やスポーツ選手にまかせておけばよい。