少しずつ見えてきたこと

無職になって2週間が過ぎた。退職したらゆっくり本を読めるかな、と思っていたけど、全然無理だった。毎日やることがあって、それなりに迷ったり、小さく失敗したり、小さく嬉しいことがあったり、と、個人的には在職時とあまり変わらず、忙しく、刺激的な毎日を送っている。

 

この2週間のあいだに、役所関係の手続きをしたり、数十年ぶりにハローワークに行ったり、と退職にまつわるさまざまな事務仕事に追われた。思っていたよりずっと大変だということと、なんだかんだいっても出版社というのは人権や差別に対して敏感で配慮が行き届いていて、そういう面ではとても守られた、恵まれた環境にいたんだなあ、ということを感じている。(急に「奥様」と呼ばれたり、「ご主人様はお勤めですか」と聞かれたりするようになった、という程度のことなんだけど、結構げんなりするのだ)

 

でもまあ、そのようなことがあるのはもちろん世間一般というか、役所関係や銀行、不動産屋などの担当者だけで、退職のお祝いをしましょう、とか、フリーになったのなら一度お会いしませんか、とか、言ってくれた人たちは、もちろん「奥様」としての私には関心がなく、退職後は何をするつもりなのか、どれくらい、どんな感じの仕事をするつもりなのか、をたずねてくれる。ありがたいことだ。

 

そうやっていろいろな人と話をしていく中で、少しずつ見えてきたのは、私はやっぱり編集の仕事が好きなんだな、ということと、できれば文学や翻訳にかかわる仕事をしていきたいということ。定年まで4年を残して早期退職してしまったので、ある程度は稼がないといけないのだけれど、会社勤めの年収と同程度を稼がなくてはいけない、というほど追い詰められてはいないので、いきなりはむりでも、少しずつ、文学や翻訳の方に近づいていけたらいいな、と思っている。

 

そんな中、今日はたまたま大学の文学研究者グループのオンライン読書会に参加する機会があった。課題図書はケストナー飛ぶ教室』。児童文学だし、既読だし、ということで、わりと気楽に参加したのだけれど、3時間、みっちりと内容の濃いお話で、とても楽しかった。何より全員が文学研究者なのだけれど難しい言葉を使わず、本文に即して具体的に語っているので、素人でも十分議論についていけた。考えてみると、同居人以外の人と文学について話したり、文学についての議論や講演を聞いたりすることから、ずいぶん長いこと離れていたような気がする。教科書編集時代の教材化会議や素材選定会議、『世界文学アンソロジー』の編集会議は、大変だったけどほんとうに楽しかった。退職したのだから、もう自分が好きなことをやればいいんじゃないか、と思って、これからはどんどん読書会や勉強会にも参加してみようと思う。お仕事につながるかどうかとかはあまり考えず、面白そうなことにはどんどん首をつっこんで、多少場違いだったりして恥ずかしい思いをするかもしれないけど、それはそれで、ごめんなさい、とあやまって引っ込めばいいんじゃない? と思うくらいの図々しさは身についた。失うものは何もないのだから。

 

その一方で、元の職場の後輩からどーんと仕事を頼まれて、ありがたいんだけどすごい分量で、むむむ、となっている。年内いっぱいで同居人も定年退職なので、在宅ワークに集中できるように、家から歩いて15分くらいのところに二人で部屋を借りた。本と仕事道具以外は何もおかず、読書と仕事以外は何もしない部屋にしようという計画なので、テレビもガスコンロもない。作業机と防寒を兼ねたこたつだけ、通販で安いのを買って、さらに一つだけ、贅沢な買い物をした。「ヨギボー」である。

 

定年まであと4年、予定外に退職をしてしまった私と異なり、同居人は堂々たる「定年退職」。働かなくても誰からも後ろ指を指されることもない。なので、彼はどうやら、ガツガツ仕事をしている私の横で、ゆったりと「ヨギボー」に沈み込み、好きな本を読んだり、足でツンツンと蹴ってフラットになった「ヨギボー」でお昼寝したり、という夢のような生活を思い描いているらしい。(でもまあ、そうはさせない、と思っているのは、私だけではないようだ。)「本」と「こたつ」と「ヨギボー」。明日から新しい生活が始まる。

 

 

翻訳の世界1991年5月号

同居人が「高山先生のアンケートの回答がすばらしいんだ」と言って持ち帰った「翻訳の世界」1991年5月号。へー、懐かしいなーとページを繰ってみたら、これがいろいろな意味でなかなか面白い。

 

まず普通に雑誌として、とても工夫されていて面白い。たまたま「大学英語テキスト使い方マニュアル」という特集だったこともあるかもしれないけれど、「翻訳」のもつ実用性と文化的意義と時代との関係性がほどよくミックスされている。内容は難解ではないけれど、かなりがっつり書かれていて、一つ一つの記事は長め。同居人の言っていた「高山先生のアンケートの回答」は、短い中にものすごい情報量と情熱がつまっていて、我々出版社の血と汗と涙の結晶を、玉石混淆の山から選び出して愛着をもって使っている様子が伝わってきて、感動的ですらある。その一方で、毎年時期になると段ボールいっぱいになるテキスト見本の山について、ほとんどが使い物にならない、値段が高すぎる、という苦情・不満も複数の先生が書いていらして、ああ、30年前からずっとこうだったのだな、と悲しい気持ちにもなる。

 

ともあれ、特集以外の書評や連載、翻訳学習者向けの情報ページやコンテスト、ラジオの翻訳講座と至れり尽せりの内容。翻訳に興味のある人は、この雑誌を定期購読して熟読していればとりあえず安心、と言えるくらいの内容の充実度だった。(1991年というと私が翻訳学校に通い始める1年前、中学校の教師になった年だ。翻訳修行時代はほんとうにお金がなかったけど、この雑誌だけは定期購読していたことを思い出した。)

 

そして古いバックナンバーならではの、もう一つの面白さは、本文や広告に入っている人物写真。最近亡くなった東進ハイスクール金ピカ先生の笑顔の写真の隣のページには、「素顔の翻訳家」広大な世界へアクセスする、若き沼野充義先生の写真が! 肘をついて少し首を傾げ、メガネの向こうからカメラに向かって知的な視線を投げかける沼野先生。でも記事を読むと、言っている内容は、つい数年前に先生からうかがったこととほとんど変わっていなくて(「まあ、人があまりやっていないことをするのが好きな性格なんですね」って、間違いなく同じセリフを聞いたぞー!)うわー、ぶれてない、と妙なことに感動したり。「新進翻訳家登場」の黒原敏行さんも、若い!「週3日予備校の講師をしながら、あとの時間を翻訳にあてています」とか語っている。「当面の世俗的な目標は、早く翻訳業だけで一本立ちすることあたりでしょうか」だって。あの黒原さんにも、そういう修行時代があったのねー、と励まされたり。

 

そのほか目次に並んだお名前をながめるにつけ、その錚々たる顔ぶれに、「翻訳の世界」という雑誌の実力を思ったり、すごい人は昔からすごかったんだなー、と思ったり。そして密かな楽しみ方の最たるものが、「英日翻訳懸賞」の成績優秀者リスト。優秀賞で賞金2万円をゲットしている方は、今は翻訳家として活躍されている方。2次予選通過者の中にも、現在翻訳家として大活躍されている方の名前がちらほら。(33歳・塾講師・東松山市)の方とか。1次予選通過者しかもBランクの中にひっそりと、新潮クレストなどでも翻訳を出している有名翻訳家のお名前を発見! 

 

なんてはしゃいでいるうちに、夜も更けてしまった。うまく言えないけど、この「翻訳の世界」を読むことは、単なるノスタルジーを越えた何かがあるような気がする。少なくともこの雑誌が発している翻訳界の熱気と志みたいなものは、しっかり伝わってきたし、自分なりに受け止めた。57歳からできることはほんとうに限られていると思うけど、何かできるかもしれない。そのヒントになるかもしれない。などという野望はとりあえず脇において、明日の膨大な作業の計画をたてながら眠ることにしよう。

退職することになった

なんとびっくりだけど、10月末日をもって、19年の会社員生活にピリオドを打つことになった。会社と喧嘩をしたわけでも、クビになったわけでもない。円満退社である。

 

なぜやめることにしたのか、というような話は、ここでは書かないことにする。それよりこれからどうするのか、何をやるのか、というより、自分はこれからどうしたいのか、何をしたいのか、混沌とした自分の頭の中をまとめるために、久しぶりにブログを復活しようと思う。

 

とはいえ、ただでさえ前代未聞の忙しさだったはずのところへ退職のゴタゴタが加わり、土日も平日夜も仕事がぎっしり詰まっている。退職までに有給休暇を消化して、、、なんていうのは夢のまた夢。ほんとうにあと1ヶ月でぐちゃぐちゃの机も片付けて、お世話になった人々にきちんとご挨拶をして、立つ鳥跡を濁さず、といくのかどうか、不安は募る。

 

編集の仕事は、たぶん向いてたんだろうなあ、と思う。お茶汲みOLも中学校教師もそれぞれ2年しか続かなかったのに、編集プロダクション勤務時代も含めるとトータルで25年以上、編集の仕事は続けられたということだから。この間何度か、辞めてやるう! とか、もう、無理! とかなったりしたけど、振り返ってみれば楽しいことのほうが圧倒的に多かった。企画をたてるのも、ゲラを読むのも、著者とのやりとりも、デザイナーさんや組版さんとのやりとりも、どれも楽しかった。膨大な事務作業やお金の計算や営業活動はちょっとつらかったけど、人間関係にもおおむね恵まれた。

 

はてさて、これから、どうしようか。

 

ほんとうに、何も考えていないのだ。11月以降の予定表は真っ白。何も決まってない。一つ思っているのは、この「真っ白」の状態を楽しんでみようかな、ということ。なにしろ今の会社に入社してからというもの、毎日予定をびっしり組んで、締め切り、校了、提出、に追われて走り続けてきたものだから、11月に入り、無職のまま57回目の誕生日を迎える、というのもなかなかいいんじゃないか、と思っている。

 

幸い、読書の趣味は、お金のない無職の味方。膨大な積読本を少しずつ読みながら、運動不足にならないように、自転車で西荻三鷹の古本屋に行ったり、吉祥寺や高井戸の新刊書店に行ったりする、という生活を、とりあえず数ヶ月、送ってみたらどうだろう。月に1回、ハローワークに行って、これまで大事に積み立ててきた雇用保険の恩恵をこうむり、そうこうするうちに同居人が定年退職をして、二人揃って家でゴロゴロ、するほど広い家ではないので、さあその時こそこれからどうするか、本気で考えればいいんじゃないかな。

 

 

 

2020年という年

(2020年の年末に書いたブログが「下書き」のところに残っていた。退職が決まったこのタイミングで読みかえすと感無量だ。なぜ公開しなかったのかな、最後の一文が泣けるな、と思いつつ、せっかくなので公開することにした。2021年の秋。)

 

わたしは11月27日生まれなので、だいたい自分の誕生日頃から1年を振り返り、身辺整理をしたり、翌年への準備をはじめたりする。今年は世界中の多くの人と同じように、私にとっても特別な1年だった。2月末の楽しみにしていた東京ドームライブが当日中止の衝撃からはじまり、予定していた二度の英国旅行もキャンセルに。政府の施策や会社のルール変更にともなって、完全に家にひきこもったり、週に何度か出勤したり、もうだいじょうぶかと友人に会ったりジムに行ったり、やっぱりだめかと約束をキャンセルしたりした。

 

そして世界的な状況とは関係なく、仕事上で大きな変化があった。定年まであと数年というところへ、これまで所属したことのない部署への人事異動だ。その衝撃的な人事異動の予定を知らされた前日、担当していた翻訳書をめぐってかつてないショックな事件があった。まだわたしの心の傷は生々しいし、何より周囲の人に無用な迷惑をかけたくないので詳しくは書けないのだけれど、最初の1週間ほどは、毎日泣き暮らしていた。自分は誠実に丁寧に仕事をしてきたつもりだったけれど、自分の見識のなさが事態を引き起こしたという自覚はあったので、ほどなく事件が収束し、関係者が少なくとも表向きは元気になったのを見て、心から安堵し、全面的にわたしを擁護してくれた部長をはじめ励まし見守ってくれた周囲の人々にひたすら感謝した、というのが今年の夏の出来事だ。

 

その事件のごたごたをひきずったまま、人事異動が発令となり、それまで情熱を傾けてきた翻訳書業界とお別れすることになった。前述したように、事件が起きたときには人事異動は決まっていたので、全く無関係ではあるのだけれど、自分としてはこれで諦めがついたというか、6年半のあいだ、自由にのびのびと、作りたい本を作ることができたのだから、もう、これで十分じゃないか、と思った。事件になった本も、エージェントさんから紹介されて、なんとか自分の手で世に出したいと思い、何度も企画書を練り直し、会議では大熱弁をふるって、会議を通過させた本だった。翻訳者も校正者も組版者も、皆が心をひとつにして作り上げた本だった。

 

異動後に刊行した別の翻訳書は幸い売れ行き好調で、発売2ヶ月ほどで増刷が決まった。来年早々にはもう1冊翻訳書が出るし、5月には書き下ろしの単行本が出る。以前の職場関係の仕事はそれで終わりで、来年からはいよいよ本格的に新しい職場での仕事がはじまる。もちろん、この4ヶ月、ぼんやりしていたわけじゃない。でも、自社の刊行物の状況を把握し、業界の同行を調査・分析して、具体的に動き出すためには、ほんとうは半年くらいは必要だろうと思う。夢中で新しい職場の仕事に邁進していたから、翻訳書の仕事のことを思い出すこともあまりなかった。年末になって急に、ああ、この一年で、いろんなことがあったなあ、と振り返っている、といったところ。

 

全然関係ないんだけど、さっき高校時代の部活のOB会LINEで、高校の練習に参加しているOBOGの様子が流れてきた。20代の数年間、わたしの人生の最優先事項だった場所。当時いっしょにコーチをやっていた先輩が、今日の練習に参加していたらしい。当時の私たちは、今思えば指導者になるにはあまりに未熟だったし、あらゆる面でいきあたりばったりで、手探りで、情熱と体力だけで行動していたなあと思う。

 

まあそういう意味ではあまり進歩していないような気もする。さすがに30年も経てば、情熱と体力の総量はだいぶ縮小しているようだけれど、そこはなんとか経験でカバーして、2021年の秋には最初の果実がしっかりと実を結ぶようにがんばろう。

 

読了本3冊

またしても更新が滞ってしまった。自分の記録用に、読了本のタイトルをとりあえずあげておく。

 

出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記
 

 

 

 

 

JR上野駅公園口 (河出文庫)

JR上野駅公園口 (河出文庫)

 

 すごい統一感のなさだけど、どれも面白く読んだ。感想をいろいろ書きたいのだけれどちょっと元気が出ない。そういうときもあるよね。

翻訳家時代のことなど

元翻訳家の方が書いた本『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』が話題だ。信頼する翻訳家の方がこの本を読んで、とても褒めていたので、読んでみようかなと思ったりもするけど、ここに書かれたひどい編集者&出版社の話題に呼応するように、これまで翻訳家のみなさんが受けたひどい扱いがツイッターで流れてきて、現在編集者である私にとっては辛い読書になるのではないかとちょっと二の足を踏んでいる。

 

もちろん私は翻訳者に対して不誠実な態度をとったことはない(はずだ)。はずだ、と書いたのは、自分はまったく気づいていないところで、ひどいことを言ったりしたりしている可能性がないとは言い切れないから。ただ少なくとも、自分自身が何年も翻訳学校に通い、下訳や共訳や雑誌の翻訳、それにリーディングをたくさんやって、やっと本の仕事をするようになって、でも翻訳だけでは食べていけなくて、いろんな種類のアルバイトをやったり、妹にお金を借りたりしていっぱい辛い思いをしたから、翻訳者(とくに駆け出しの)の経済的な苦境とそれでも本を出したいという情熱に、誰よりも寄り添う編集者になろうと思っていた。

 

それでも、持ち込みの翻訳者さんをがっかりさせてしまったことは何度もあるし、こちらから依頼してレジュメを書いてもらったのに、企画会議が通らずに断念したこともある(レジュメ代だけお支払いした)。今回の異動前に検討中だった企画も何本かあり、試訳をいただいていたものもあった(試訳代だけお支払いした)。レジュメも試訳も、企画が通らなかった場合はレジュメ代・試訳代をいくらお支払いします、と伝えてはあったけれど、訳者さんからしたらお金じゃないんだ、この本を出したかったんだ、という気持ちだろうなと思う。

 

自分自身の翻訳家時代、そういうエピソードはあったかというと、やはりそれなりに、いろいろあった。同じ出版社から、2冊連続で1冊まるまる訳して編集者と細部の打ち合わせまで進めてたのに刊行中止、ということがあって、このときはたしか、予定していた印税の半額程度をそれぞれもらったと記憶している。編集者の方は熱心で誠実なお仕事をされていたと思うけど、上司の許可がなかなか出ない、という話だった。私の翻訳がだめなのかな、と当時は悩んだけれども、たぶんその会社の企画進行の方法がまずかったんだろうと今になってみるとわかる。まわりにも何人か、その会社から刊行中止の憂き目にあっていた。

 

それからもう1冊、まるまる1冊某翻訳家の下訳をして、先生の名前で近刊案内まで出たのに、担当編集者が異動だか転職だかでいなくなってしまい、企画が流れた、という本がある。ネイティブ・アメリカンの作家の書いた幻想文学で、内容が結構難しかったので相当時間をかけて訳した。英語でどうしてもわからないところを解決するために、英会話学校のプライベートレッスンをとったりもした(もちろん自費)。翻訳データは先生に渡したきり、コピーなどもとっていなかったので(なにしろ20年以上前のことだ)、今となってはどんな翻訳だったかふりかえるすべもないのだけれど、なかなか面白い作品だったことは間違いない。「他の出版社から出せるように働きかけているから」と先生は言っていたけれど、もう忘れているだろうな。というわけで、これが唯一、下訳料をもらいそびれた案件。当時は下訳料を払わない先生が大勢いたと聞いているけれど、わたしは図々しく催促するし、いつもお金がなくてピイピイだったので、この一件以外はもらいそびれることはなかった。

 

ちなみに、2冊連続で刊行中止を出した出版社は、今はもう翻訳出版はほとんどやっていない。担当編集者はまもなく退職して起業したらしい。下訳が流れた出版社は、今も時々、翻訳小説を出しているけれど、あのときの外国文学のシリーズは、もちろんもうない。翻訳出版をめぐる状況は年々厳しくなっているように思うし、残念ながら私もまた、唐突に翻訳出版を離れざるを得ないことになってしまったわけだけど、だからといって翻訳出版に未来がないとは思わない。楽観的にすぎるのかもしれないが、わたしは仕事を離れても毎日、ネットやツイッターで翻訳書の情報に触れ、書店に行けば必ず翻訳書の棚をながめ、翻訳書を買って、読んでいて、翻訳書を読まない人生なんて考えられないから。

 

この週末は少しだけ仕事をしたけれど、全体としては友人に会ったり本屋さんに行ったり温泉施設に行ったりして人間らしく過ごした。土曜日の新宿は混んでいて、伊勢丹で化粧室を使おうと思ったけど並んでいたので、勝手知ったる紀伊国屋書店の3Fの化粧室を借りた。せっかくきたんだからと短時間書棚をながめただけで、欲しい本がどんどん出てきてしまい、うーん、どうしよう、と思いつつ、最終的に選んだのがこの2冊。散財。

 

魯迅と日本文学: 漱石・鷗外から清張・春樹まで

魯迅と日本文学: 漱石・鷗外から清張・春樹まで

  • 作者:藤井 省三
  • 発売日: 2015/08/21
  • メディア: 単行本
 

 

 

ミルクマン

ミルクマン

 

 

国語の勉強

最近は朝から晩まで学参のことを考えている。学参というか教育関係の仕事はどうやら、オンオフをぱきっと分けにくいみたいで、誕生日の今日も(あ、もう日付変わっちゃった)だらだらと同業他社のホームページを見たりお金の計算をしたりして過ぎてしまった。

 

国語はずっと得意だった。小さい頃から本を読むのが好きだったし、文章を書くのも好きだった。辞書を引く習慣なんてまるでなかったし、読書記録をつけたり、メモをとりながら読んだりすることもなかったけど、学校の国語のテストで間違えることはまずなかった。

 

でも国文科出身の母が「国文科は就職口がない」と言い張ったのと、日本語の本は勝手に読めるから趣味で読めばいいか、と安易に考えて英文科に入った。英文科の授業は楽しかったけど、クラスメートのほとんどが英語が好きで英文科に来ているということを知り、驚いた。同時に、「英会話」と「LL」の授業がまったくついていけず、このままだと落第しそうということがわかり、あわてて英語の勉強をはじめた。私の大学は卒業論文は日本語可だったので、張り切って日本語でキーツのオードについて書いた。そこそこ好成績だったように思う。

 

社会人2年目に突然、翻訳家になりたいと思いつめて翻訳学校に通い出した。短い文章を翻訳して提出しているうちはよかったけれど、長い文章になると全然根気が続かない。また、英米の文化を本を通してしか知らないということもコンプレックスだったので、一念発起してイギリスに留学。わずか3ヶ月だったけど、なけなしの貯金と退職金を使い果たして、なんとかケンブリッジ英検のProficiencyをとって帰国。

 

それからまあいろいろあって、翻訳家じゃなくて学校の先生になろうと思い、なぜか英語じゃなくて国語だーっと思い、通信教育で国語の免許をとって、神奈川県の採用試験を受けて、無事合格して葉山の中学校の教壇に立ったのが、27歳のときだった。

 

最初の授業で何を扱うか、春休みの間じゅう考えて、選んだ素材がなんと、『エースをねらえ!』に出てくる「庭球する心」だった。もう、今思うとあまりに自由すぎる選択で、たぶん日本中でこれを素材にして国語の授業したのって私一人だけだよね。ただ念のために書いておくと、これを詩として鑑賞したとかそういうことではなくて、中学校1年生に対して、なぜ国語を学ぶのか、中学校の国語ではどんなことを学ぶのか、というような話をする題材として使ったのでした。

 

それでここでもまたいろいろあって、学校を去ることになり、最後の授業で扱ったのは、茨木のり子の「自分の感受性くらい」だった。こちらはまとも、というか、まあ普通の選択。でも、最初の授業と最後の授業でどちらも「詩」を扱ったのは、1コマで完結しやすいという理由だけじゃないと思う。当時中学生に「先生は物語とか詩のときはすごいはりきってるけど、説明文のときはそうでもないね」と言われてしまったくらい、わたしは文学が好きなのだ。これまでの56年の人生で、進んで評論を読んだことなんてほとんどない。でも!!

 

でも、学校のテストで評論文が出ても、ほとんど間違えることはなかった。問題集を解いたことも、解法のテクニック的なものを学んだことも、塾や予備校に通ったこともない。趣味で読んでいる本はほとんどが小説で、評論を読むことはないし、恥ずかしながら若い頃は、新聞もあまり読んでいなかった。それでも、国語のテストは得意だったのだ。

 

なぜこんなことにこだわっているかというと、仕事で国語の学参を調べていると、必ず「評論文の読み方」「小説の読み方」がまるで全く別のものであるかのように語られているから。評論だって小説だって、同じように読めばいいんじゃん? そういえば、文芸翻訳と技術翻訳について、イシグロの訳者として知られる土屋政雄氏は、「基本的には同じですよ」と言っていたっけ。

 

それでも大学受験のとき少しだけ勉強したのは、古文と漢文。学校の教科書を繰り返し音読するというなんとも原始的なやり方で勉強していた。漢文の勉強は、中学生だった妹に教科書ガイドを渡し、私は教科書を見ながら書き下し文にしたり、口語訳をしたりする。間違えると妹が教えてくれるんだけど、妹と二人で、「こうおうのへいがいかにへきす!」とか「ぐやぐやなんじをいかんせん!」とか叫んでた日々が懐かしい。

 

30代半ば、翻訳家としてデビューしたものの安定収入が得られるまでにはまだまだ時間がかかりそう、という状況のなか、家から自転車で行ける距離にある編集プロダクションの、国語学参の編集アルバイト募集の広告を見つけた。ただ当時はたいていの求人に年齢制限が書かれていて、この広告も30歳以下、だった。でもあきらめるのは惜しい。思い切って電話をしてみた。自転車で行けるから交通費がかからないこと、元国語教師であること、を強調し、最後に「年齢制限は超えてるんですけど、若く見えます!」とアピール。これが決めてになったのかどうか、とにかくこの編集プロダクションでアルバイトとして働き始めた。昼はこの会社で小学校の教科書準拠テストを作り、夜はポルノ小説やホラー小説を訳す、という二重生活を約6年。大学の英文科を出てから、38歳でいまの会社に就職するまで、公私ともに波乱万丈、なんでもありの人生のなか、英語と国語の間を行ったり来たり。考えてみれば就職してからも、国語の教科書に11年、翻訳書の編集に6年、で、いままた国語の世界に戻ってきた、というわけなので、このまま国語に落ち着くのか、また英語のほうに向かうのか、よくわからないけどとりあえず国語学参の仕事がんばろう。なんて書いてたらもうじき5時だ。寝なくちゃ。読み返さないで寝る。